ヤコブの浅瀬での戦いとサラディンの勝利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/14 07:52 UTC 版)
「ヤコブの浅瀬の戦い」の記事における「ヤコブの浅瀬での戦いとサラディンの勝利」の解説
1179年8月23日、サラディンはヤコブの浅瀬に到着すると部隊に砦に向けて矢を放つよう命じた。砦への包囲戦が始まったのである。弓兵が砦内の兵士を撹乱する一方で、シャステレの北東角の石と鉄で築かれた城壁を破るために坑道が掘られた。これは攻城戦における対壕戦術の一つで、城壁の下まで掘られた坑道の支柱を燃やし、城壁の自重により地下から崩壊させる方法であった。坑道が掘られてすぐに、サラディン軍は坑道に火を放った。しかし、これは当初失敗に終わった。そして、兵士はバケツの水で火を消し、そのたびに金貨を支払うことになった。火が消えた後、工兵は再び火をつけるよう指示された。 一方で、ボードゥアンは開戦の知らせを受けると同時に、エルサレムから援軍を呼び寄せた。しかしシャステレからティベリアスに居るボードゥアンへの伝令は緊密なものではなく、知らせを受けたのは攻城戦が始まってから数日が経過してからであった。 砦内の守備兵は主門を補強するなどの対処に努めたが、サラディン軍は坑道に再び火をつけ、城壁を崩壊させることに成功した。これにより、築城の試みは徒労に終わり、包囲が始まっておよそ6日でサラディンとその軍はシャステレを占拠した。1179年8月30日までにイスラムの侵攻軍はヤコブの浅瀬の砦を略奪して居住者の大部分を殺した。同日、援軍が召集されて一週間もたたないうちに、ボードゥアンとその支援軍はティベリアスを発ち、シャステレから真っ直ぐ立ちこめる煙を地平線上に見つけた。砦の守備をしていた騎士、殺害された建築家と建設作業員、そして800人の捕虜となった者を救援するにはあまりにも遅すぎたのである。ボードゥアンとその援軍はティベリアスへと反転してサラディンは砦を壊したままにするよう命じた。
※この「ヤコブの浅瀬での戦いとサラディンの勝利」の解説は、「ヤコブの浅瀬の戦い」の解説の一部です。
「ヤコブの浅瀬での戦いとサラディンの勝利」を含む「ヤコブの浅瀬の戦い」の記事については、「ヤコブの浅瀬の戦い」の概要を参照ください。
- ヤコブの浅瀬での戦いとサラディンの勝利のページへのリンク