モーツァルトとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 04:51 UTC 版)
「アントニオ・サリエリ」の記事における「モーツァルトとの対立」の解説
サリエリに関する事柄で最も有名なのはモーツァルトと対立したことであり、1820年代のウィーンでは、サリエリがモーツァルトから盗作したり、毒殺しようとしたと非難するスキャンダルが起こった。ただし、これらは何ひとつ立証されてはいない。これはロッシーニを担ぐイタリア派とドイツ民族のドイツ音楽を標榜するドイツ派の対立の中で、宮廷楽長を長年独占して来たイタリア人のサリエリが標的にされたといわれている(また、モーツァルト自身も「ウィーンで自分が高い地位に付けないのはサリエリが邪魔をするためだ」と主張していたという)。 但し、映画『アマデウス』などで描かれているような、彼が精神病院で余生を閉じたり、モーツァルトを死に追いやったと告白する場面は当時のスキャンダラスな風聞を元にしており事実とは大きく異なる。実際に彼は死の直前まで入院していたが、それは痛風と視力低下が元で起こった怪我の治療の為である。ただ、身に覚えの無い噂に心を痛めていたらしく、弟子のイグナーツ・モシェレスにわざわざ自らの無実を訴えた所、かえってこれがモシェレスの疑念を呼び、彼の日記に「モーツァルトを毒殺したに違いない」と書かれてしまう結果になる。 彼はそれ以前にも、ロッシーニからも「モーツァルトを本当に毒殺したのか?」と面と向かって尋ねられた事があり、その時は毅然とした態度で否定する余裕があったが、病苦と怪我で気が弱くなっていたのは事実である。 実際の彼は経済的に成功した為か慈善活動にも熱心で、弟子からは一切謝礼を取らず、才能のある弟子や生活に困る弟子には支援を惜しまなかった。職を失って困窮する音楽家やその遺族の為に、互助会を組織し、慈善コンサートを毎年開催し、有力諸侯に困窮者への支援の手紙を書くなどしている。 また、モーツァルトのミサ曲をたびたび演奏し、『魔笛』を高く評価するなど、モーツァルトの才能を認めて親交を持っていたことが明らかとなっている。一方、モーツァルトは1773年(17歳)にピアノのための『サリエリのオペラ「ヴェネツィアの市」のアリア「わが愛しのアドーネ」による6つの変奏曲 ト長調 K. 180 (173a)』を作曲しており、ウィーンでの就職を狙って作られたと考えられている。なお、1791年のモーツァルトの死に際してサリエリは葬儀に参列し、1793年1月2日、ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵の依頼によりサリエリはモーツァルトの遺作『レクイエム ニ短調 K. 626』を初演した。
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