モンキー乗りの導入と普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 11:02 UTC 版)
「保田隆芳」の記事における「モンキー乗りの導入と普及」の解説
.mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 1951年、「尾形流」のフォーム 1963年、モンキー姿勢のフォーム アメリカで先行して差すレースの勝率が高いことを体感した保田は帰国後、「尾形流」のフォームを一変、滞在中に習得した鐙を短く詰めるモンキー乗りで騎乗を始め、逃げ、先行策からも数々の勝利を挙げるようになる。40歳を前にしての大幅なフォーム改造は、感嘆の声とともに迎えられた。翌1959年、保田は自己最高の89勝を挙げて初のリーディングジョッキーのタイトルを獲得。さらに1960年、1961年と3年連続でその座に就いた。従来、日本ではごく一部にモンキー乗り、あるいは「半モンキー」程度のフォームで騎乗する者もあったが、多くの者は長鐙長手綱で、モンキー乗りに対しては「あんな格好で馬が御せるものか、馬が追えるわけがない」という非難の声もあった。ある時には天神乗りの名手として知られたベテラン騎手が酒席で「アメリカのやつらのサルまねをしやがって」などと保田のモンキー乗りに難癖をつけ、それに対し保田は「理に適っているから取り入れただけです。慣れればちゃんと追えます」と応じたところ、そのベテラン騎手が殴り掛かってきて取っ組み合いの喧嘩になったこともあった。しかし第一人者の保田によるフォーム改造とその後の活躍は他の騎手にも大いに影響を与え、以後モンキー乗りは日本競馬界でも広く普及し主流の騎乗法となった。保田自身は、フォームの改造について次のように語っている。 当時は騎手というのは師匠の真似をするものだったんですよ。たとえば尾形流っていって尾形藤吉先生の乗り方がある。で、"おい、保田は尾形先生に似てきたぞ"ってまわりのみんなにいわれるのがすごく嬉しかった。それぞれの先生にそれぞれの流儀があって、弟子はみんなそれぞれに近づこうとしていましたからね。だけどそれと同時に、ぼくは以前からアメリカの競馬、そう、ケンタッキーダービーなんかをニュース映画で見ていて、格好いいなあと思っていたんです。ちょうどハクチカラという馬でアメリカに行くチャンスをもらって、これはぜひ勉強してこようと思ったんですね。ところが最初のうちはアブミを短くするっていうのはすごく負担なんです。足に負担がかかってね。腰は痛いし。これはいっぺんにはできないと思って、少しずつ少しずつやって、どうにかあの乗り方ができるようになったんです。あれでも長いっていわれるかもしれないけど、ぼくなりの乗り方ができるようになったわけです。 保田がもたらしたものはモンキー乗りに留まらず、アメリカで見た騎手の休養のためのジョッキールーム設置を競馬会に進言したことで、中央競馬にも「調整ルーム」が設けられることになった。ほかアメリカで使われている馬具や鞭なども日本に紹介した。武田文吾は「保田くんがアメリカへ遠征して、いろいろなことを持ち帰ってくれたおかげで、日本の競馬の発展は10年早まった」と評したという。またアメリカ滞在は保田自身の意識も変え、アメリカの騎手たちの姿に倣い、より厳しい生活管理を自己に課すようになった。弟弟子の野平祐二は「保田さんがすごかったのは、大きなレースをいくつ勝ったとかいうことじゃなくて、あの時代に何を考えて何をしたかっていうことだと思う」と、その進取の精神を称えている。
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