モデルから俳優へ
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1954年、明治大学経営学部に入学。同級生だったホキ徳田の祖母の家に画家の中原淳一が寄宿していたことが縁で中原が編集者を務めていたひまわり社を見学した際、中原が発行する雑誌「ジュニアそれいゆ」のモデルにスカウトされ、1958年、大学卒業と同時に東宝へ入社。この時、中原の命名によって「夏の太陽に向かって真っすぐに伸びていく若木のように、たくましく生き生きとした俳優になって欲しい」という意味を込められた「夏木陽介」の芸名を受け、数日後には『美女と液体人間』で映画デビューを飾る。同期には桐野洋雄や小川安三がいる。当初、会社からは佐藤允・夏木・瀬木俊一の3人組で「スリーガイズ」と売り出されたが、瀬木が引退したために自然消滅した。また夏木本人もデビューからしばらくは「何かあったら辞めてやる」と軽い気持ちで役者をやっていたという。しかし東宝の俳優養成所では講師役の小杉義男に対して一歩も引かなかったり、東宝撮影所の地主の息子だった守衛の態度に憤慨して撮影所の門の鎖をバイクで引きちぎったりと、他人に物怖じしない行動が畏敬の念を集めることとなり、東宝の社風も重なって、いじめられることはなかったという。
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モデルから俳優へ
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「パティ・ダーバンヴィル」の記事における「モデルから俳優へ」の解説
ヨーロッパ遠征は数か月間の予定だったが、パリを拠点にニューヨークやロンドンを行き来しているうちに5年間をパリで過ごした。しかしモデルとして成功はしたものの、他のモデルたちと並んだときに自分だけが明らかに小柄であることに劣等感を抱いていた。1970年に出演したフランス映画 ”La Maison”で演技の面白さに夢中になったのをきっかけに、モデルを辞め俳優業に専念しようと考え始めた。 再びウォーホールに呼ばれ ”L'amour”(1973)に出演したが、ウォーホールの作品を支持するのは一部の熱狂的なファンだけで女優として注目されるのは難しいと考えたため、ウォーホールの”ミューズ”を離脱した。そして1973年にアメリカに戻ったのを機に、本格的に演技を学ぼうとニューヨークで約1年間の指導を受けた。その後はロサンゼルスに移り住み、脇役ではあるがメジャー映画や人気テレビドラマにコンスタントに出演し女優としてのキャリアを積み重ねていった。 1987年にはジョン・パトリック・シャンリィが書いた戯曲 ”Italian American Reconciliation”のニューヨークでの初公演に主演し、ドラマローグ賞の最優秀女優賞を受賞した。 2011年頃からはニューヨークを離れ、既に他界した母親の故郷であるノースカロライナ州トライオンに住み始めた。常に次の仕事を探し続けなければならないショービジネスの世界にうんざりしていたといい、その様をラットレース(鼠がホイールの中をぐるぐる走り続ける様子)に例えた。ここでトライオン・アート・アンド・ジュエリースクールに通い、ジュエリー作りに没頭しながら時折りショートフィルムやテレビドラマのゲスト出演などの仕事を引き受けている。
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