モイズ・キスリングとは? わかりやすく解説

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キスリング【Moïse Kisling】

読み方:きすりんぐ

[1891〜1953]ポーランド生まれ画家エコール‐ド‐パリ一人明る色彩で、哀愁帯びた女性像風景静物描いた

キスリングの画像
キスリング(左)とピカソ(右)(1916年)/Wikimedia Commons https://goo.gl/f8jEU8
キスリングの画像 キスリングの画像
芥子(1931)/撮影Irina https://goo.gl/qibEXs
キスリングの画像
少女肖像(1947)/撮影Irina https://goo.gl/2y9aTp

モイズ・キスリング

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/17 04:51 UTC 版)

モイズ・キスリング
Moïse Kisling
ポートレイト
本名 モイジェシュ・キスリング(Mojżesz Kisling)
誕生日 (1891-01-22) 1891年1月22日
出生地 オーストリア=ハンガリー帝国 クラクフ大公国クラクフ
死没年 (1953-04-29) 1953年4月29日(62歳没)
死没地 フランスヴァール県、サナリー・シュル・メール
国籍 ポーランド
芸術分野 エコール・ド・パリ
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モイズ・キスリング(Moïse Kisling、1891年1月22日 - 1953年4月29日)は、エコール・ド・パリ(パリ派)の画家ポーランド生まれ。

生涯

1891年1月22日オーストリア=ハンガリー帝国の大公国であるクラクフ大公国の首都クラクフユダヤ人として生まれる。地元の美術学校で、印象派の影響を受けたユゼフ・パンキエヴィッチに師事する。

1910年、19歳でパリに出て、モンマルトルで画家として本格的に絵を描き始める。

1912年ピカソブラックらの活動拠点モンマルトルのバトー・ラヴォワール(洗濯船)に移り住む。 同年、サロン・ドートンヌアンデパンダン展に出品。

1919年、ギャルリー・ドリュエにて個展を開催。 好評を博し1920年代には画家として成功する。

第一次世界大戦では、自ら志願して外人部隊に従軍。ソンムの戦いで重傷を負い、兵役を解かれてスペインで療養する。その功績により1916年にフランス国籍を得る。

1925年アリス・プランモデルに「モンパルナスのキキ」を描く。

第二次世界大戦勃発後、再び志願して従軍するが、1940年のフランス降伏後にナチスのユダヤ人弾圧を逃れるためにアメリカに亡命し、ニューヨークワシントンD.C.で展覧会を開いた後にカリフォルニアに居を定めた。終戦後の1946年、フランスに戻る。

1953年4月29日、南フランスヴァール県の港町サナリー・シュル・メールにて没。同県のラ・ヴァレット=デュ=ヴァールのラ・ヴァレット墓地に埋葬されている[1]

人物

脚注

  1. ^ Moise Kisling” (英語). Find a Grave. 2015年5月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年7月26日閲覧。


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