ムーミン・シリーズの制作
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「トーベ・ヤンソン」の記事における「ムーミン・シリーズの制作」の解説
ムーミンの物語はトーベの励みになり、『小さなトロールと大きな洪水』に続く2作目の執筆を始める。トーベはアトスとともに彼の故郷のオーランド諸島を訪ねて、北部のサルトヴィーク(英語版)で1945年の夏をすごし、オーランドの風景をムーミンの世界に活かした。当初のタイトルは『ムーミントロールと恐怖の彗星』で、草稿にはアトスも肯定的なアドバイスを書き、トーベは執筆に熱中した。1946年秋に2作目が『彗星追跡』(のちの『ムーミン谷の彗星』)というタイトルで出版された頃には、3作目の『たのしいムーミン一家』の執筆を始めていた。 同時期に演出家のヴィヴィカ・バンドレル(英語版)と出会い、トーベにとってヴィヴィカは初の同性の恋人となった。トーベはヴィヴィカによって絵が豊かになり、無駄な名誉欲から解放されたと感じた。しかし当時は法律上の問題もあり、2人は交際を隠した。 『彗星追跡』もセーデルストレム社で出版されたが、初版の売り上げはかんばしくなく続編が検討されなかったため、『たのしいムーミン一家』の原稿はシルツ社に持ち込んだ。秋には最初のムーミン・コミックスの『ムーミントロールと地球の終わり』の連載を『ニュー・ティード(英語版)』誌で始めた。連載は好評となり、書籍のファンも増えていった。『たのしいムーミン一家』は1948年のクリスマス商戦で出版され、スウェーデンでは1949年にフーゴ・イェーベル社が出版し、多くの評論家も高く評価した。1950年には『たのしいムーミン一家』の英訳がイギリスのベン社から出版され、1951年にはアメリカでも出版された。イギリスの『イブニング・ニュース(英語版)』はムーミンの連載漫画を申し出て、経済的な利点を重視したトーベは契約を交わした。連載は1954年に始まり、やがて40カ国の新聞に掲載されて最盛期の読者は2000万人に達した。のちに連載は弟のラルスに引き継がれた。スウェーデンやイギリスで人気が出た影響を受けて、フィンランド語への翻訳も進んだ。 1958年にヴィクトルが亡くなった。『ムーミンパパ海へいく』は「ある父親に捧げる」と書かれており、これはヴィクトルを指す。1970年にシグネが亡くなり、以前から執筆を進めていた『ムーミン谷の十一月』を発表した。小説としてのムーミン・シリーズは終了し、以後は大人向け小説の執筆を続ける。
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