マーダー・クリークの由来
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「カネッカー郡 (アラバマ州)」の記事における「マーダー・クリークの由来」の解説
アルバート・ジェイムズの『最初期からのアラバマの歴史、付け足しジョージアとミシシッピ』には次のような記述がある。 1788年、現在カネッカー郡となっている領域で血なまぐさい事件がおきた。アメリカ独立戦争の時代であり、マクギルブレー大佐は多くの著名なロイヤリストと知り合いになった。その中でもサウスカロライナ州出身のジョセフ・カークランド大佐がいた。1788年、カークランドはその息子や甥などと共に、クーサ川沿いのマクギルブレーの家にいた。彼等はペンサコーラに向かう途中であり、そこで旅券を得てスペイン領ルイジアナに入るつもりだった。彼等が居心地の良いその家を立ち去ると決めたとき、マクギルブレーは従僕の奴隷をペンサコーラまでの案内につけた。族長の保護無しに旅するのは危険だったので、この従僕がいることは途中で出遭うインディアンに彼等が友人であることを保証するものだった。カークランドの一行はその鞍袋に多くの銀を入れていた。カネッカー川の支流から1マイル (1.6 km) 以内の場所に到着した日暮れどき、クリーク族の集落に向かう荷馬隊に出遭った。この隊は交易のためにペンサコーラに行ってきたところだった。この隊を構成していたのは、それまでに多くの人を殺してきたのでイスティリチャ、すなわち殺人者と呼ばれるヒラビー族インディアン、殺人を犯して逃亡し、その行動や凶暴性の故にインディアンから「キャット」と呼ばれる自暴自棄の白人、ヒラビーの交易業者サリバンの持ち物であるボブという名前の血に飢えた黒人だった。カークランドの一行が見えなくなると、これらごろつき達はキャンプを張った。カークランド隊は先に進んでクリークを渡り、交易道の側で浅瀬から遠くない所で宿営した。鞍袋を枕にし、銃を木に立てかけて眠りに落ちた。真夜中に悪党集団が忍び寄り、カークランド達の銃を取り上げ、3人の黒人以外の者全員を殺した。黒人の1人はマクギルブレー族長の従僕だった。戦利品を分け合った殺人者達はクリーク族集落に向かい、凶悪な事件が露見すると、マクギルブレーは犯人の追跡のために人を派遣した。キャットが逮捕されたが、他の者は逃亡した。ミルフォートという者がキャットを連れて殺人現場に行き、そこで死ぬまで木に吊すよう指示を受けた。ミルフォートはそこへ向かう時に、キャットの体を拘束し、夜にはその足を松の枝に切れ目をいれて組み合わせた一時的なおりに繋いだ。カークランド達が殺されたクリークの側に着くと、キャットは木の枝に吊された。その根元にはカークランド達の血痕がまだ残っていた。キャットが吊されて最後の苦悶を挙げたとき、ミルフォートは拳銃で止めを刺した。このことがあって、マーダー・クリークという名前が付けられた。 カネッカー郡は1818年2月13日に、ヨーロッパ系アメリカ人によって設立された。レコンストラクション時代の1868年には、新しくエスカンビア郡を作るために州議会によって領域が削られた。19世紀は海岸平原の土地がプランテーションとなり、綿花が栽培された。現在でも田園地帯である。1940年以降黒人の第二次大移動によって、特に西海岸での職を求めた多くの黒人が去っていった。 カネッカー郡1979年9月のハリケーン・フレデリックの被害を受け、被災地域に宣言された。 ヒットしたテレビ番組『牢破り』(プリズン・ブレイク)の登場人物セオドア・"ティーバッグ"・バッグウェルの生誕地とされている。
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