マデイラ・マモレ鉄道会社
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「マデイラ・マモレ鉄道」の記事における「マデイラ・マモレ鉄道会社」の解説
アマゾンのゴム景気を背景に、アクレ地方の帰属を巡り、アクレ紛争が発生した。1903年、紛争処理のためのペトロポリス条約が両国間で締結した。この条約で、ボリビアはアクレ地方をブラジルに割譲、またブラジル政府は、ボリビア政府に対して賠償金の支払いとポルト・ヴェーリョからボリビア国境のグアジャラ・ミリンまでの間に鉄道を建設することで合意した。 1906年、ブラジル政府からブラジル人の経営する会社が工事を請け負うが、出資者が集まらず断念した。1907年、アメリカ資本でマデイラ・マモレ鉄道会社(英: MADEIRA-MAMORE RAILWAY CO.)が、60年間の営業権の付与を条件に工事を請け負った。会社の資本金は1,100万ドル、社長にはアメリカペンシルベニア州出身の技術者であったパーシバル・ファーグナー(英語版、ポルトガル語版)が就任した。 1910年に入ると、工事の進捗に解決の曙光が見え始めた。1910年5月31日、ポルト・ヴェーリョからジャシ・パラナ(ポルトガル語版)まで86kmの区間が開通した。工事区間の途中のカンデラリア(伯: Candelária)に病院を設置、また工事区間に4つの医療キャンプと7つの建設キャンプを設置した。1910年7月から約1ヶ月間、著名な疫学の専門家で医学博士のオズワルド・クルス(英語版、ポルトガル語版)が工事現場に滞在し、状況の調査研究と指導を行った。クルスは、湿地に大量の石灰を撒いてマラリア蚊の発生を防ぐと共に、工事現場労働者の全員にキニーネの服用を義務付けた。これにより、マラリアの被害を最小限に食い止めることに成功した。 1911年9月には、マデイラ川とアブナ川合流地点、ポルト・ヴェーリョから220kmまでが開通した。そして、6年半の難工事の末、1912年8月1日、ポルト・ヴェーリョからグアジャラ・ミリンまでの全線が開通した。 開業後の2年間は、利益が出る輸送量が確保できた。しかし、その後は、東南アジアのゴムプランテーションとの競争に晒され、アマゾン産の天然ゴムの価格が大きく下落した。アマゾンからのゴムの輸送量が低下し、経営が悪化した。1929年、世界恐慌によりさらに輸送量が低迷した鉄道会社は、1931年にブラジル政府に300万ドルで売却し、撤退した。 その後も輸送量が上がらず、ブラジル政府は、1972年、廃線とした。代替の交通手段として、ほぼ鉄道路線に沿って道路を建設することになった。
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