マデシ闘争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/12 06:54 UTC 版)
「マデシ人権フォーラム」の記事における「マデシ闘争」の解説
2007年1月16日、フォーラムは連邦制の導入と選挙制度について暫定憲法改正を要求する大規模なゼネスト(バンダ)を宣言、さらに1月18日には幹部逮捕に抗議してジャナクプルで交通遮断(チャッカ・ジャム)を宣言。翌日、ネパール共産党毛沢東主義派が人権フォーラムの集会で発砲。フォーラム側が毛派の車両を停止させた結果、両者は衝突し、死者を出すにいたる。1月24日、フォーラムはゼネストの拡大を呼びかける。2月8日、毛派の幹部チナク・クルミらを拉致、5時間後に解放した。1月25日、ネパール統一共産党のマーダブ・クマール・ネパール書記長(現・首相)の祖先の家を襲撃。 2月7日農相マハンタ・タクールを長とする政府の委員会がフォーラムに話し合いを呼び掛ける。2月8日フォーラムは10日間ストライキを中止し、条件付で政府との交渉に入る。2月19日抗議行動、ストライキ、交通遮断を再開する。2月22日、政府は再度話し合いを呼びかけるが、フォーラム側は拒否する。2月23日毛沢東派系の武装組織の活動家150人がフォーラムの集会を襲撃。以後、毛派との衝突を頻繁に繰り返す。
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