ポルトガル人の居留地とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ポルトガル人の居留地の意味・解説 

ポルトガル人の居留地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 00:07 UTC 版)

マカオ」の記事における「ポルトガル人の居留地」の解説

1513年に、当時世界有数海洋大国として世界各地にその覇権誇っていたポルトガル人中国に初渡来し明王朝との交易開始した海禁下の明が1522年屯門島を拠点とするポルトガル船を駆逐し広州交易禁止した。ただしこの時期マカオ領有権ポルトガルではなく明にあり、明がマカオ税関設置するなど主権有していた。 しかし、明の嘉靖年間1522年 - 1566年)には、マカオ周辺海域での海賊横行甚だしくポルトガル艦隊総司令官のレオネル・デ・ソウザが海賊退治協力した1557年、その褒美としてに明かマカオへの居留認められた。明が終焉に至る17世紀中頃までマカオ中継地としたポルトガル交易東アジア周辺国広がりをみせた。ポルトガル人居住者は、明代から居留のための献金などの名目交易一部利益上納していた。 当時における中国大陸における唯一のヨーロッパ人居留地となった。 なお、この前後にカトリック教会宣教師イエズス会創設メンバー1人であるフランシスコ・ザビエルが、ポルトガル政府支援の下、マカオ拠点東南アジア各地キリスト教布教活動行っていた。 この頃マカオは、日本鎖国するまでは長崎との貿易繁栄極めたその後ポルトガルとスペイン同君連合となり、スペインの植民地マニラとの間にも貿易ルート開かれ、これはオランダとのマカオの戦い起こすことになる(南蛮貿易歴史)。 しかし明清交替期の動乱広東広州)の対外開放等の影響から、アジアにおける貿易港としてのマカオ次第衰えていった。

※この「ポルトガル人の居留地」の解説は、「マカオ」の解説の一部です。
「ポルトガル人の居留地」を含む「マカオ」の記事については、「マカオ」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ポルトガル人の居留地」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ポルトガル人の居留地」の関連用語

ポルトガル人の居留地のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ポルトガル人の居留地のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのマカオ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS