ペストへの対抗手段
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:58 UTC 版)
「マルセイユの大ペスト」の記事における「ペストへの対抗手段」の解説
専門とされたペスト医師を含む医師は肉眼的特徴以外にはなんら知識を持たない疫病の大流行に直面し、全く無力であった。予防措置は大部分伝統的で、護符の使用のような迷信的なものさえ含まれていた。ルイ15世の摂政の侍医、ピエール・シラクの娘婿チコヨーのように、病気は感染しないと考える医師たちもいた。彼は病人に素手で触れ、なんらの防護もせず遺体を解剖した。にもかかわらず非常に幸運にも彼はペストに感染しなかった。 ペストの真の原因が知られていなかったため、同時代の伝統的な治療の結果―発汗、嘔吐、瀉血、そしてこれらの処置にはつきものの出血―は死期を早め、患者の苦しみを縮める以上の効果は持たなかった。外科的処置として、十分拡張した「成熟した」横痃(有痛性リンパ節腫脹)の切開が行われていた。 もっとも、すべてが無意味だったわけではない。医師たちが着用した革や油引きのエプロンはノミの咬傷を受ける確率を低下させた。家屋を解毒するため使われた硫黄やヒ素を中心とする香料はノミの駆除に影響を与える可能性もあった。その一方で、当時も有名だった「四盗賊の酢(フランス語版)」は何の効果もなかった。この酢の起源は以下の通りである。1628年-1631年にかけてトゥーロンでペストが流行した際、ペストの犠牲者から略奪を繰り返したとして4人の盗賊が逮捕された。盗賊の救命と引き換えに、彼らは感染から彼ら自身を守るために使っていた秘薬の処方を伝えた、という話である。アブサン、セージ、ミント、ローズマリー、ルー、ラベンダー、シナモン、クローブ、ニンニクがその調剤に用いられた。この秘密を暴露したにもかかわらず、盗賊たちは結局絞首刑に処された。この「防毒酢」は1884年に薬局方から消滅するまで、その名声をほしいままにした。.
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