ペストと戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/17 20:08 UTC 版)
1483年にペストが猛威を振るった。約 2,200 人の住民のうち、生き延びたのはわずか約 600 人であった。その後も黒死病はこの街を何度も襲った。特に1472年、1558年、1567年、1585年、1597年、1610年から1611年、1624年に大流行した。 三十年戦争は、1621年にブラウンシュヴァイク公クリスティアンの軍勢による略奪をもたらした。1631年9月9日にはヘッセン方伯ヴィルヘルム5世が率いるプロテスタント軍に占領され、略奪を受け、重い軍税の支払いを命じられた。リュッツェンの戦い後の退却の際、ティリー伯がフリッツラーに襲来した。ヘッセンは早々にこの街を放棄したが、その後すぐに再占領した。彼らは何度も皇帝軍によって追い払われながらもこの街を1648年まで占領し続けた。1640年8月14日に大公レオポルト・ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒと将軍オクタヴィオ・ピッコロミーニが率いる皇帝軍がこの街を占領したが、8月20日にバンナー将軍が率いるスウェーデン軍が現れた。皇帝軍はこれに対抗する大規模な戦闘の準備ができていなかった。スウェーデン軍と皇帝軍が去った後、ヘッセン軍が戻ってきた。1647年にグロンスフェルト将軍とメランダー将軍が率いる皇帝・バイエルン連合軍がこの街を再度占領した。ウランゲル将軍が率いるスウェーデン・ヘッセン連合軍とテュレンヌ元帥が率いるフランス軍とによって追い払われたが、その後すぐに戻って来ると、1648年春にこれを奪回した。その後ヘッセンが再びこの街を占領し、1648年8月31日に最終的にこの街を明け渡した。1618年に 2,400 人だったこの街の人口は、1648年の終戦までに 400 人にまで減少し、街と教会がその被害から回復するために70年を要した。 七年戦争は、この街に再び甚大な被害をもたらした。敵のヘッセン、ブラウンシュヴァイク、ハノーファー、イングランド、その後再び同盟を結んだフランスとヴュルテンベルクが、入れ替わり立ち替わりこの街を支配した。1761年2月12日から15日まで、この街に陣取った約 1,000 人のVicomte de Narbonne-Peltor 将軍麾下のフランスおよびアイルランドの軍勢と、フリードリヒ大帝の甥でブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル公子カール・ヴィルヘルム・フェルディナントが率いる 6,000 人に増強された包囲軍との間で激しい戦闘が行われた。ハノーファー軍に大きな損害が出た2月13日の戦いの後、2月14日に包囲軍は 15,000 人に増員され、街の北側に強力な砲兵隊が合流し、激しい砲撃が開始された。2月15日も砲撃は続けられ、大きな被害が生じた。Narbonne 将軍は2月15日の夜に降伏し、その兵は撤退した。勝利した連合軍は、10,000 ターラーの軍税を徴収し、市壁の上部と壁内通路の破壊を開始した。この軍勢は、強力なフランス軍が接近しているとの報を承け、3月9日にこの街を離脱した。1762年、フランス軍は防衛施設の破壊を続けていた。塔や市壁の一部を取り壊し、北側の二重の堀を埋め立て、急斜面のエーダー川北岸のブドウ山をつぶした。現在も通りの名 (Am Weinberg) にその名残がある。フリッツラーは「feste Stadt(防衛機能を有する都市)」ではなくなり、何世紀も続いたブドウ山で栽培されたブドウによるワイン作りも廃止された。
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