ベルヌ条約―著作権の国際化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/01 05:45 UTC 版)
「著作権の歴史」の記事における「ベルヌ条約―著作権の国際化」の解説
詳細は「ベルヌ条約」および「万国著作権条約」を参照 英国以外においても、同様の著作権の概念の普及と法整備が行われてきた。しかし、これらの権利は各国の国内法により定められていたため、ある国で成立した権利は他の国では主張できないという問題があった。例えば、英国で英国人により出版された作品は英国内でのみ著作権の保護を受け、他の国、例えばフランスにおいては誰によっても複製や販売が可能であった。同様にフランス人によりフランス国内で出版された作品はフランス内でのみ保護を受け、英国内では、誰によっても複製や販売が可能であった。英国は、自国に著作権のある書籍の輸入の禁止と、二国間条約の締結によりこの問題に対応していた。しかし、多くの国が参加する著作権保護の条約が求められていた。 その様な背景の中、フランスの政治家であり作家ヴィクトル・ユーゴーの提案により、ベルヌ条約が締結された。この条約はフランスにおける「著作者の権利」(droit d'auteur) に影響を受けており、経済的な関係にのみ着目しているアングロサクソンの「著作権」(copyright) の考えと対比されるものである。条約では、創作的な作品の著作権は、明示的に主張したり宣言しなくても自動的に発生するものである。著作者は、条約の締結国内において著作権を主張するには、著作権の「登録」や「申込み」の手続の必要がない。作品が「完成する」、つまり、書かれる、記録される、あるいは他の物理的な形となると、即座に、著作者はその作品や、派生した作品に対して、作者がはっきりとそれを否定するか、著作物が期限切れとなるまでは、配布に関する排他的な権利を得る。外国の著作者は条約に調印したどの国においても、内国の著作者と同じ様に著作権を得ることができるというものであった。 ベルヌ条約の管理は、1883年設立の知的所有権保護合同国際事務局 (BIRPI) で行われていた。1960年、 BIRPIはジュネーヴに移動した。1967年、この団体は、WIPOとなり、1974年には国連の機関となった。 ベルヌ条約は何度かの改定を経て現在の形となるが、一部の国では国内法の整備ができていない場合もあった。英国では、1887年に調印を行ったが、1988年の著作権・デザイン・特許法が成立するまで約100年間条約の大部分の条件を満たしていなかった。 ヨーロッパの国々はこの条約に加盟したものの、アメリカ合衆国は、著作権法の大きな変更が必要であったため、条約への参加を拒否した。この理由として、アメリカ合衆国は初期のイギリスのアン法をベースに成立した法を使用していたため、著作権発生の要件として登録が必要で、著作権の対象であることを明示しなくてはいけないシステムになっていたためである。ベルヌ条約では、明示的な登録は不要であるため、アメリカ合衆国がベルヌ条約に加入するには、著作権作品の登録手続きの廃止、著作権表示の廃止が必要であった。アメリカ合衆国は、中南米との間にパンアメリカン条約を結ぶもののベルヌ条約への参加は行わなかった。国際社会では、アメリカ合衆国が国際的な著作権の条約に加盟していないことは問題であるとし、ベルヌ条約より緩い、万国著作権条約が1952年に締結された。しかし、1989年3月1日、アメリカ合衆国は、1988年のベルヌ条約遂行法を設定し、ベルヌ条約に参加した。その結果、万国著作権条約は時代遅れのものとなった。 現在、ほとんどの国が世界貿易機関 (WTO) の一員であるため、知的所有権の貿易関連の側面に関する協定を守る必要があり、そのために、ベルヌ条約の条件のほとんどの部分を非加盟国でも受け入れる必要がある。
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