ベルナールによる雑誌への発表
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「フィンセント・ファン・ゴッホの手紙」の記事における「ベルナールによる雑誌への発表」の解説
ゴッホが1890年に死去してから間もなく、ベルナールは、ゴッホから受け取った手紙の公刊に向けて動き始めた。彼は、1891年、『現代の人々(フランス語版)』誌にゴッホを紹介する記事を書き、その中で、ゴッホから受け取った手紙の刊行は「斬新さと訴求力をもったものになるだろう」と書いている。そして、1893年4月から、フランスの『メルキュール・ド・フランス』誌上で彼の小伝とともに手紙を少しずつ発表し始めた。最初の4回は4月号から7月号まで毎月掲載された。ベルナールは1892年12月31日に、編集の苦労についてヨーの兄アンドリース・ボンゲルに宛てて「手紙の一部を写したが、とても時間がかかり骨の折れる作業です。書きかけの文を補ったり、不可解な迷路の間を縫って考えを追ったりしなければならないことがしばしばです。」などと書いている。ベルナールは、この時、(1)17世紀のオランダ絵画、(2)新しい絵画、(3)ゴッホの作品と制作状況についての記述、(4)ベルナールの作品に対するゴッホの反応、(5)宗教・社会に対する考え方という5つのテーマに沿って手紙を選んだ。ベルナールは、この時の連載では手紙の抜粋のみにとどめ、「表現がきつく感情を害しかねない部分は採録せず、私自身に関わる部分は公表せず、また当時の友人たちのイニシャルだけを載せることにした」と後に説明している。掲載の順序もランダムにし、私生活の状況は分かりにくいようになっていた。 続いて1893年8月から1895年2月まで、『メルキュール』誌には、テオ宛ての書簡の抜粋が掲載された。これはベルナールがヨーから借り出したものである。手紙の掲載は、中断を挟みながら、1897年8月まで続いた。 『メルキュール』誌という権威ある雑誌での掲載は、前衛美術に関心のある読者に大きな反響を呼んだ。そして、フランス以外にも翻訳されて紹介された。ドイツでは、ブルーノ・カッシーラーが、美術誌『芸術と芸術家(ドイツ語版)』の1904年と1905年の号で、絵画作品とともに、『メルキュール』誌と『今日と明日』誌に掲載された書簡のドイツ語訳を掲載した。そして、1906年にはアンソロジー的に編纂された単行本を出版し、一般の人々にもゴッホの名を知らせる役割を果たした。
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