ベネズエラ第一共和国時代
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「フランシスコ・デ・ミランダ」の記事における「ベネズエラ第一共和国時代」の解説
半島戦争に紛れて、1810年4月19日、ベネズエラ第一共和国をシモン・ボリバルやアンドレス・ベージョと共にミランダは成立させた。そして英国に使節を派遣し、政府の承認及び援助を求めた。ミランダは更にジャコバン派に倣った政治結社を設立し、周辺の植民地に独立と個人の概念を広めた。そしてミランダは議会によって自らの名前を冠したムニシピオであるアンソアテギ州フランシスコ・デ・ミランダの代表となった。更に議会は国旗を三色旗とする事も策定した。 翌年になると王党派の叛乱により、第一共和国は領土の拡大に挫折した。加えて、カカオのプランテーション農業が改善されなかったため、貧困層からの支持率は低迷した。更に1812年3月26日にカラカス地震が発生し、主に共和国側の地域が潰滅的な打撃を受けた。地震の発生が聖木曜日であったこともあり、国民はこれを神が共和国を認めない意思を示した結果と捉えて、叛乱は大規模化した。6月4日にはバルセロナが王党派の手に落ちた。加えてファン・ドミンゴ・デ・モンテベルデ率いるスペイン王国海軍が上陸、市民がスペイン王国海軍に加勢し、ミランダはベネズエラ中心部の僅かな領域のみでしか権力を行使できない状況に陥った。 第一共和国は非常事態宣言を発令、ミランダを大元帥に任命したものの、スペイン王国軍が7月半ばにバレンシアを占領し、ミランダは絶望的状況に追いやられた。7月25日にミランダはスペイン王国側と休戦協定を締結し、王党派が到着する以前に、ラグアイラから英国の船で国外脱出したが、シモン・ボリバル等から外患罪を問われ、最終的にスペイン王国軍にミランダは捕えられた。この背景にはシモン・ボリバルはミランダを反逆者として処刑したかったが、周囲がそれを阻止した経緯があった。と言うのもシモン・ボリバルは、和平条約をスペイン帝国が気にかけていることをミランダが信じているならば、彼は条約通りに動くだろうし、そうで無いならば彼は叛逆者となり、軍に殺されるだろう、と言う解釈をミランダに対してしていたのである。しかし、皮肉な事に、ミランダによってこの解釈はスペイン帝国側に伝わり、ミランダが逃亡する機会を与えた。 この時捕まったミランダは、永遠に自由を与えられなかった。裁判中途にスペインカディス県サン・フェルナンドで死んだのである。集団墓地に埋葬されたが、埋められた場所は判らないため、ベネズエラ国家神殿に空の墓が造成されている。
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