ベネズエラ独立運動
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「シモン・ボリバル」の記事における「ベネズエラ独立運動」の解説
1806年にベネズエラ出身の元スペイン軍人フランシスコ・デ・ミランダがベネズエラ解放のための戦争を始めると、ボリバルはこれに興味を抱き、1807年にベネズエラに帰国した。南アメリカは1,400万人の人口を擁し、ヨーロッパ人と現地人の混血が進んでいた。その後、1808年にナポレオンがスペインに侵入して兄のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王ホセ1世として擁立した際、ボリバルは反王政派(愛国連盟)に加わった。1810年4月19日、カラカスは植民地の自治を実行するための議会を設置。ボリバルはイギリスに革命の支持を取り付けるために派遣された。イギリスでの活動目的は、スペイン植民地独立運動の説明と万が一の場合の武器などの支援を受けられるように働きかけることであった。資産以外に何の後ろ盾もなかったボリバルのイングランド説得は不成功に終わったが、ボリバルはイギリスの政治制度から多くを学び、後年世界で最も優れた政治体制は君主制を除いてイギリスのものだと語っている。 ボリバルは1811年にベネズエラに帰国、3月に開かれた制憲会議で演説を行った。同年7月に、制憲会議がベネズエラの独立を宣言。ボリバルはベネズエラ国軍に入隊した。ボリバルはプエルト・カベロの要塞の守備をしていたが、将校の裏切りにより要塞がスペイン軍の手に渡ってしまった。さらに同年起こったカラカス地震による被害は大きく、1812年7月、カラカスは再びスペイン軍に占領されてしまう。これを重く見たミランダはスペインと休戦(事実上の降伏)したが、ボリバルは徹底抗戦を誓って裏切り者のミランダをスペイン軍に引き渡し、12月にはヌエバ・グラナダ連合州(英語版)(1810年 - 1816年)が支配していた現コロンビアのカリブ海沿岸の都市カルタヘナに向った。
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