ヘンリー・ビラード、ゴールド・クリーク、ゴールド・スパイク
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「ノーザン・パシフィック鉄道」の記事における「ヘンリー・ビラード、ゴールド・クリーク、ゴールド・スパイク」の解説
ヘンリー・ビラード(Henry Villard)は、洗礼名をフェルディナンド・ハインリッヒ・ギュスターブ・ヒルガード(Ferdinand Heinrich Gustav Hilgard)といい、1835年にドイツのバイエルン州で生まれた。1853年に18歳でイリノイ州に入植し、高等教育を受けていたため、ジャーナリスト兼編集者となった。彼は1871年に故郷のドイツに帰り、そこで欧州におけるアメリカの鉄道への投機事業に出会う。 彼は1873年の恐慌後にアメリカに戻ったとき、そうした事業の代表者となる。1880年までの数年間、ビラードはオレゴン州の輸送機関の経営に介入する。ビラードの介入により、これらの路線はヨーロッパ人による持株会社、オレゴン・アンド・トランスコンチネンタル・カンパニー(Oregon and Transcontinental Company)となった。 同社が所有した路線のうち、もっとも重要だったものは、オレゴン・レールウェイ・アンド・ナビゲーション・カンパニー(Oregon Railway and Navigation Company、ORNC)である。オレゴン州ポートランドから、コロンビア川南岸を東に向かい、スネーク川との合流点付近のワルーラでユニオン・パシフィック鉄道のオレゴン支線に接続する路線を運営していた鉄道である。 彼が戻っていた10年間のうちに、ビラードは太平洋岸北西部における運輸業界のトップとなった。その唯一の競争相手は、勢力を拡大しつつあるNPであった。NPの路線網の完成は、同地方、とりわけポートランドにおけるビラードの資産や権益を脅かした。NPによって、ピュージェット湾の港町であるタコマやシアトルがアメリカ東部と鉄道で結ばれてしまえば、ポートランドは都市としての重要性が下がってしまうためである。 数年間に渡りオレゴン州の河川交通と鉄道輸送を独占していたビラードは、彼のヨーロッパのコネクションと、カンザス・パシフィック鉄道の経営権争奪においてジェイ・グールド(Jay Gould)を打ち負かしたという評判を利用し、800万ドルをかき集めた。ビラードに資金提供した者たちには、その資金が何に使用されるのかは明かされなかった。ビラードは、この「ブラインド・プール」という方法で資金を集め、その資金をNPの経営権奪取のために使用した。 こうした激しい攻防の末、ビラードは、ビリングスと彼の後援者たちを打ち負かし、ビリングスは6月9日に社長を辞した。アシュアベル・H・バーニー(Ashabel H. Barney)が6月19日から9月15日までの間、暫定的な管理者となり、最終的にはビラードが社長となった。 1882年、360マイル(580km)の幹線と368マイル(592km)の支線が完成。路線延長は、それぞれ合計1,347マイル(2,168km)と731マイル(1,176km)となった。同年10月10日、ミネソタ州ワデナ(Wadena)からファーガス・フォールズ(Fergus Falls)までの路線が開通。10月21日にはミズーリ川に100万ドルをかけた橋がかけられた。従前、フェリーによる渡河を余儀なくされていた部分で、冬期に川面が氷結した際のみ、鉄道がその上を走行していたところが、通年通行可能になったのである。 1881年、南北戦争の将軍にしてペンシルバニア鉄道のハーマン・ハウプト(Herman HaUPt)が、ノーザン・パシフィック相互扶助会(Northern Pacific Beneficial Association、NPBA)を設立した。NPBAは、健康保険維持機構(Health Maintenance Organization、HMO)の先駆者として4つの病院を設置。その位置は、ミネソタ州セントポール、モンタナ州グレンダイブ、同ミズーラ、ワシントン州タコマであり、被雇用者、退職者、その家族を対象としたものであった。 こうした動きのクライマックスは、1883年であった。1月15日、一番列車がボーズマン峠(Bozeman Pass)の東麓、モンタナ州リビングストンに到達。リビングストンは、ブレイナードとサウス・タコマのように鉄道関連の修繕工場として発展してきた町であるとともに、NPのシステムにおいて東西の分界点であった。 ビラードは、1883年にNPが完成するようにハードに進めていた。ビラードが社長の時代、平均すると日に1.5マイル(2.4km)ずつ路線の建設が進められ、9月に入ると完成に近づいた。その祝賀のために、ビラードは東部からモンタナ州中心部のゴールド・クリーク(Gold Creek (Montana))に向けて4本の列車を走らせた。その招待客の中には、フレデリック・ビリングス、ユリシーズ・グラント、ビラードの岳父にして奴隷制度廃止運動家であるウィリアム・ロイド・ガリソンといった名前があった。9月8日、ゴールド・クリークにてゴールデン・スパイクが打ち込まれた。
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