プロライダーとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/16 03:48 UTC 版)
「アントン・マンク」の記事における「プロライダーとして」の解説
1970年、マンクは125cc世界チャンピオンのディーター・ブラウンのチームにメカニックとして加わった。そしてゼップ・シュレーゲルとアルフォンス・ツェンダー・マンクと共同でシュレーゲル・マンク・ツェンダー(SMZ250)を開発した。マンクはこのマシンでアウクスブルクの空港で行われたレースに出走し、オートバイレースにおける初勝利を挙げた。 1975年、350ccのヤマハでドイツ選手権のチャンピオンとなったマンクは、同じ年のオーストリアグランプリでグランプリデビューを果たした。 グランプリ初勝利は1976年のドイツGP、モルビデリの125ccのマシンを駆ってニュルブルクリンクの22.8kmの北コースで挙げたものである。 1978年シーズン、マンクはカワサキファクトリーとの契約に成功し、250ccクラスと350ccクラスに参戦した。そして1980年、250ccクラスのワールドチャンピオンに輝いたマンクは、350ccクラスでもジャン・エクロードに次ぐランキング2位を獲得した。 翌1981年には250ccと350ccのダブルタイトルを獲得し、ドイツのスポーツマン・オブ・ザ・イヤーに輝いた。 1982年には、この年限りで廃止された350ccクラスの最後のチャンピオンとなったが、250ccクラスではシーズン5勝を挙げたにもかかわらず、わずか1ポイント差でタイトルを逃した。 1983年、500ccクラスにステップアップしたマンクであったがシーズン初めにスキーの事故で重傷を負ってしまい、8月の半ばまで欠場せざるを得なかった。結局この年は1度も10位以内に入賞することすらできなかった。続く1984年は250ccクラスに戻り、プライベーターとしてヤマハのマシンに乗ってランキング5位となった。 1985年、マンクはランキング2位となったが、500ccクラスとのダブルタイトルを獲得したフレディ・スペンサーの圧倒的な強さの影に隠れたものであった。1986年はランキング4位に終わり、そのうえ長年のパートナーであったチーフメカニックのゼップ・シュレーゲルとも袂を分かつことになった。 そして1987年、シーズン8勝を挙げたマンクは通算3度目のワールドチャンピオンに輝いた。38歳でのタイトル獲得は、グランプリ史上最年長記録であった。 1988年、開幕戦の日本GPを勝利で飾ったマンクであったが、リエカ・サーキットで開催された第10戦ユーゴスラビアGPでのクラッシュによって大きな怪我を負い、その怪我によって引退に追い込まれた。 グランプリで通算42勝を挙げたマンクは2001年、MotoGP殿堂入りを果たした。
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