ブラディ、ボール、ハモンド、プリングの提唱する原古典期の概念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/26 19:00 UTC 版)
「原古典期」の記事における「ブラディ、ボール、ハモンド、プリングの提唱する原古典期の概念」の解説
ブラディ、ボール、ハモンド、プリングは、1998年にAncient Mesoamerica誌に掲載した論文(Brady et.al.1998)で、第一点として、原古典期という概念の性質は移行的なものと考えるのではなく、明確な土器の種類のユニットとしてとらえるべきであるので、このような土器の形状のみが強調されている概念をマヤ文明の発展段階の概念として用いるべきではないと主張する。また、第二点に原古典期の形式的な状況があきらかになったとし、ナフ・トゥイニチ洞窟の出土品からホルムル橙色土器であるアグアカテ・グループは、先古典期後期の橙色土器伝統の系譜をひき、ホルムルI式とされたイシュカンリオ・オレンジは、古典期のペテン光沢土器(Peten Gloss Ware)の一種として位置づけられることを強調しておきたい、とする。つまり原古典期の象徴的な土器であるイシュカンリオ・オレンジは、時期区分を示すものではなく古典期前期の低地マヤに属する土器と位置付けられるということである。第三点として原古典期段階とされてきた土器は、従来よりも広範にわたる形式としてとらえ、ホルムルI式とされたものは、地域的なアッセンブリッジか土器複合のうちのさらに細分化されたもののひとつをあらわしているにすぎないと考える。ホルムルI式という様式が含意しているものは多彩色のオレンジ光沢土器で乳房型四脚をもつ鉢や皿の集合以外のなにものでもなく一つのアッセンブリッジとみなすことはできないとする。 第四点として新たな原古典期の編年的位置づけを行うデータについて、第一段階と第二段階に区分する。第一段階として橙褐色のつや消し仕上げの土器の出現する75±25B.C.を開始時期として位置づける。第二段階として、A.D.150年ごろの明るいオレンジ色をした光沢土器の出現をもって区分する。この場合、最初のタイプが第二段階で必ずしも消失するわけではない。原古典期の終期についてイシュカンリオ・オレンジ多彩色のような乳房型四脚土器の消失ということと考えれば、A.D.400年よりもさかのぼることはないとする。さらに、原古典期を特定する土器群を物質的な表面調整の光沢にみられる技術的な違いが組み合わされているか否かという基準から考えるべきだと主張し、原古典期の期間は紀元前1世紀から5世紀の初めとする。この時期には歴史的な現象のみではなく技術的、美術的に重要な進歩が明確になった時期でもあり、原古典期の概念を土器の発展段階を軸として理解して用いるならば有用であり妥当であろうとする一方で、それ以外の意味で用いるならばマヤ考古学の語句からは、誤った概念を生み出すものであるので除外すべきだと主張する。 しかし、ことはそう単純ではなく、乳房型四脚土器が紀元前100年ないし同50年から紀元250年ないし同300年くらいの時期のものと考えられてきたこと、オルメカ文明のラ・ベンタが放棄された紀元前5世紀ころからチャパス州やグアテマラ高地でイサパ文化などの石彫を造られた2世紀頃までの時期を漠然と原古典期として位置づける考え方は根強く浸透していることから、原古典期の概念についてはその是非をめぐっても論争が続くものと思われる。
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