フォアポウ・サーカス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 18:40 UTC 版)
「トプシー (象)」の記事における「フォアポウ・サーカス」の解説
1875年頃、トプシーは東南アジアで生まれ、すぐに象取引業者に捕獲された。フォアポウ・サーカスのオーナーであるアダム・フォアポウは初のアメリカ生まれの子象として宣伝すべくアメリカに密輸した。当時フォアポウ・サーカスは、より多くのより大きな象を所有するバーナム・アンド・ベイリー・サーカスと競合していた。「トプシー」の名は『アンクル・トムの小屋』の奴隷の少女の名から名付けられた。 1877年2月、フォアポウは「初のアメリカ生まれの子象を唯一所有し ている」とメディアに告知した。象取引業者はP・T・バーナムにも象を売却しており、フォアポウの偽装について密告した。バーナムはフォアポウの偽装を公表し、フォアポウはトプシーがアメリカ生まれだと語ることをやめ、「初の熱帯以外で生まれた子象」と宣伝するようになった。 成長すると、身長10フィート(3m)、幅20フィート(6m)、重さ4から6トンとなった。何年も「悪い」象と言われ続けてきた。1902年、ニューヨーク市ブルックリン区にてフォアポウ&セルズ・ブラザーズ・サーカスとして活動中、トプシーは観客のジェイムズ・フィーディング・ブラウントを殺してしまった。諸説あるが、1902年3月27日朝、酔っ払っていたブラウントが全ての象が1列に繋がれている動物テントに迷い込み、象をからかいウィスキーの瓶を持ってくるよう叫んだという説が最も有力である。そしてトプシーの顔に砂をかけ、象にとって大変敏感である鼻に葉巻きたばこの火を押しつけるなど虐待した。トプシーは鼻でブラウントを地面に叩きつけ、頭、膝、足で押しつぶした。新聞は過去に12人殺したと誇張して報じたが、有力な説は1900年度のテキサス州パリスとウェーコでのフォアポウ&セルズ・ブラザーズ・サーカス従業員2人の殺害である。しかし2013年、ジャーナリストのマイケル・デイリーは著作にてウェーコで象が人を殺したという記録は残っておらず、パリスではトプシーが調教師に怪我をさせた記録はあるが、死亡したという記録はないと記した。トプシーの殺人の話が広く伝わり、サーカスの集客に大いに役立った。1902年6月、ニューヨーク州キングストンで汽車からトプシーを降ろす際、見物人のルイス・ドデロが棒を使用してトプシーの耳の後ろをくすぐった。トプシーは鼻でドデロの胴を掴み、調教師が止めるまで上下に大きく揺さぶった。これによりフォアポウ&セル・サーカスはトプシーの売却を決意した。
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