フィッシャーの攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/02 08:19 UTC 版)
「エリー砦包囲戦」の記事における「フィッシャーの攻撃」の解説
フィッシャー隊は第2/第89歩兵連隊の軽装中隊、第100歩兵連隊、第1大隊の残り、第8歩兵連隊(その前の戦闘で大きな損失を出していた)、フィッシャー自身の連隊から志願兵、ド・ワットビルの連隊で構成されていた。ド・ワットビルの事実上スイスの連隊はヨーロッパ全域からの出身者で構成され、その多くはナポレオン・ボナパルト軍の戦争捕虜または脱走兵であり、イギリス人の指揮官はその忠誠心を疑っていた。接近行軍中も1時間毎に点呼が行われ脱走を防止していた。幾人かしっかりした者を除けば、その銃から火打ち石を外し、岡の上の敵砲台は銃剣で奪うよう命令されていた。 この部隊は砦の防衛線から300 m 手前でアメリカ軍哨兵と遭遇した。急襲が成功するところだったが、雨が降っていたために高い草を通るときに起こる鞭のような騒音が悪い方に働いた。哨兵が発報して守備隊に警報を送り、その後に大急ぎで撤退した。攻撃隊の先頭が逆茂木に殺到した。彼等がそこに到着すると、タウソンが発砲を始めた。その砲台からの砲撃のリズムにより「タウソンの灯台」というニックネームが付くことになった。砲台へ何度か襲撃が行われたが、攻撃側の多くが崩れ、恐慌に陥って逃亡し、後にいたしっかりした兵士も一緒に取り去ることになった。何とか防御工作物に取り付いたとしても、攻城戦用に作られた梯子が堀の深さを考慮に入れて居らず、壁を乗り越えるには5フィート (1.5 m) も足らなかった。ド・ワットビル連隊の軽装中隊が、ナイアガラ川を泳いで防御線を交わそうとしたが、流れが速くて多くの者が流され溺れた者も出た。生き残った者も直ぐに捕まえられた。 攻撃部隊の中には退却までに5回も突撃した者もいた。第8連隊の軽装中隊のような部隊は、その勢力の3分の2を失っていた。ド・ワットビルの連隊は損失数が144名になった(多くは「不明」であり実際には森に隠れて翌朝脱走していた)。アメリカ軍のこの部分を指揮していたリプリーは、147名を捕虜にしたと報告した。その部隊の損失はほんの1ダースに過ぎなかった。フィッシャー隊は混乱の内に後退し、再度の試みは不可能と判断された。
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