ピューリタン革命とカトリック解放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 23:48 UTC 版)
「イングランド国教会」の記事における「ピューリタン革命とカトリック解放」の解説
このころから、イングランドにおける清教徒(ピューリタン)と国教会派の対立が深刻化した。1603年に即位したジェームズ1世は強く国教会派を支持、また王権神授説を称えて国王の絶対性を主張したため、プロテスタント諸派から反感を持たれたが、一方で欽定訳聖書の出版を指示するなど、宗教的な貢献も大きかった。チャールズ1世の治世では国教会派がスコットランドにも教化しようとしたために、反発した人々の手によって清教徒革命(イングランド内戦)が勃発し、敗れたチャールズ1世は1649年に処刑された。しかしその後、王政復古や名誉革命を経て、かえって国教会主流派の地位は強化された。非国教徒は名誉革命以降、1828年に審査律が廃止されるまで公職に着く事が禁じられた。 イングランド国教会主流派と対立した人々の中には、国教会内部で改革を行おうとする非分離派(長老派教会など)もいたが、国教会から出て別の教会を立てる者も多かった。後者を分離派と呼ぶ。このような国教会から出たプロテスタント会派に、バプテスト教会、クエーカー、メソジスト、会衆派教会(独立派)などがある。 1829年のカトリック教解放法(英語版)は、カトリック解放に待望久しかった市民的諸権利の回復を保障し、16世紀以来非合法化されてきたカトリック教会の再建を可能とした。1833年に始まったオックスフォード運動は国教会のカトリック文化遺産意識を反映している。オックスフォード大学内に始まったこの運動は、ジョン・ヘンリー・ニューマン(最終的に国教会からカトリックに改宗した)とエドワード・プュージー(英語版)らによって主導されたものであった。 現代のイングランド国教会は、世界の聖公会において主導的役割を果たすと共に、ローマ・カトリックなどとの対話に積極的に乗り出し、エキュメニカル運動にも積極的な役割を果たしている。ただしカトリック側は1903年、教皇レオ13世の大勅書(Apostolicae Curae et Caritatis)で、聖職者の叙任は無効と宣言しており、東方教会とは若干差別がある。 20世紀末から21世紀初頭にかけてイングランド教会で女性の聖職者の叙任が進み、2015年には初めての主教が生まれて話題となった。
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