ヒューズ提督との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/19 16:59 UTC 版)
「ピエール・アンドレ・ド・シュフラン」の記事における「ヒューズ提督との戦い」の解説
シュフランがイギリス海軍のサー・エドワード・ヒューズ提督(1720年? - 1794年)との間で繰り広げた一連の戦いは、その交戦の数と激しさで名高い。1782年には4回の海戦が行われた。2月17日のサドラスの海戦(マドラスの南)、4月12日のプロヴィディーンの海戦(トリンコマリー付近)、7月6日のネガパタムの海戦(カッダロール沖)、そして9月3日にトリンコマリー港近くで行われたトリンコマリーの海戦である。ネガパタムの海戦の後ではトリンコマリーの停泊地を包囲し、小規模なイギリス駐屯部隊を降伏に追い込んでいる。これらのいずれの戦闘においても、シュフランはヒューズによって1艦たりとも失うことなく、また捕獲もされなかった。シュフランはあらゆる場合に旺盛な意欲をもって攻撃を仕掛けた。もし部下の艦長の一部が彼の命令に従わないということがなかったら、彼は疑う余地なく、異なった形の勝利を得たことだろう。とにもかくにも彼は艦の補修を行う港の援助なしで戦隊戦力を維持し、また自力でトリンコマリーの泊地を確保したのである。 シュフランの活動は、イギリスの東インド会社と戦っていたマイソール王国のハイダル・アリーを勇気づけた。シュフランは、自分の本来の目的はエドワード・ヒューズの戦隊を無力化することにあるとして、ビュシーの指揮下に出動する軍隊の護送のためにイル・ド・フランスに戻ることを拒否した。北東のモンスーンの時期には、彼はイル・ド・フランスに戻らずにスマトラ島のマレー港で補修を行い、1783年の南西のモンスーンの時期に帰還した。ハイダル・アリーは死んでしまったが、彼の息子ティプー・スルターンはまだ東インド会社との戦いを続けていた。ビュシーの軍隊が上陸したが、その後の作戦遂行は緩慢であり、シュフランの行動は大きく妨げられる結果となった。そうした状況下、彼はヒューズとの最後の戦いを行った。1783年4月20日に行われたこのカッダロールの海戦は、15隻の船で18隻に立ち向かったもので、イギリスの提督をして、カッダロールを包囲中の陸軍を極めて危険な状態に置き去りにしたままマドラスに引き上げさせた。そこにヨーロッパで講和が成ったというニュースが到着し、戦いは終了した。そしてシュフランはフランスに帰国することになった。
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