ヒューズとの離別
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 23:57 UTC 版)
「トランス・ワールド航空」の記事における「ヒューズとの離別」の解説
その後、経営方針をめぐりヒューズ(この頃チャールズ・ティリングハスト社長も会えないほどの深刻な精神疾患であった)と役員会が対立したことを受けて、ヒューズは1966年に保有する株の多くを手放し、経営から手を引くこととなった。また同年世界一周路線から撤退した。 この際ヒューズとTWAは裁判でも争ったが、裁判所はヒューズに有利な判決を下したため、結果的にTWAは100万ドル以上の多額の裁判費用をヒューズに払うことになった。 最大のスポンサーでもあったものの、最大の足かせでもあったヒューズが去ったことで経営方針が変わり、1967年には、世界最大級のホテルチェーンであるヒルトン・インターナショナルを買収するなど、順調な業績を元に事業の多角化を進めた。 さらに1970年代には、最新鋭のロッキード L1011 トライスター型機をイースタン航空やデルタ航空などの他の大手航空会社とともに導入し、国内幹線や短中距離国際線に投入したほか、ボーイング747型機や同型機の超長距離型であるボーイング747-SPの導入などを通じて積極的な国際線網の展開を進めた。 しかし、1970年代後半になるとエールフランス航空や日本航空、KLMオランダ航空やルフトハンザドイツ航空などとの外国航空会社との競合激化などにより次第に業績が悪化し、経営が苦しくなったところで規制緩和の大波を受けることになった。
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