バンクーバー五輪で銅メダル獲得
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 01:29 UTC 版)
「髙橋大輔 (フィギュアスケート選手)」の記事における「バンクーバー五輪で銅メダル獲得」の解説
2006-2007シーズン、NHK杯で優勝、フリーでは1年8ヶ月ぶりに4回転ジャンプも成功させた。2季連続で進出したGPファイナルは、競技直前からの体調不良による腹痛や吐き気に耐えながら最後まで滑り切り、日本人男子として過去最高の2位となった。全日本選手権では2位以下に大差をつけて2連覇を達成。2007年冬季ユニバーシアードでも2連覇を果たした。日本・東京で開催の世界選手権では、ショートプログラム3位、フリースケーティング1位で、日本男子史上最高位となる銀メダルを獲得した。また、織田信成が7位に入ったため、翌2008年世界選手権の日本男子代表枠は最大の3枠となった。 2007-2008シーズン、GPシリーズ初戦のスケートアメリカで優勝。2戦目のNHK杯では日本人男子として五十嵐文男以来26年ぶりのNHK杯連覇を達成し、3季連続のGPファイナル進出を出場ポイント1位通過で決めた。ファイナルではステファン・ランビエールに僅か0.26点及ばず2位となるも、12月の全日本選手権ではフリーで4回転ジャンプを2度成功させ、再び2位以下に大差をつけて3連覇を達成。四大陸選手権でもフリーで2度の4回転ジャンプを成功させ、フリーと総合得点でISU歴代最高記録を更新して初優勝。優勝候補の筆頭にあげられて臨んだ世界選手権であったが、フリーではジャンプミスやザヤックルール違反により総合4位に終わった。5月、コーチのニコライ・モロゾフが織田信成のコーチに就任したため、モロゾフとの契約を解除した。 2008-2009シーズン、2008年10月末の練習中に3回転アクセルで転倒し、右膝を負傷したため、出場を予定していたグランプリシリーズ中国杯を欠場。その後の精密検査により右足膝の前十字靭帯と半月板を損傷していることが分かり、シーズンの全大会の出場を断念して11月に手術をした。リハビリを経て2009年4月より氷上での練習を再開、6月からはジャンプも跳び始めた。リハビリで体の可動域が広がったため、跳び方を調整する必要があった。また、ジャンプ専門のコーチとして本田武史を迎え、ジャンプの指導を受け始めた。 2009-2010シーズン、10月のフィンランディア杯優勝で自らの国際競技会復帰を飾った。スケートカナダでは表彰台に上り、2季ぶりにGPファイナルにも出場。全日本選手権で4度目の優勝を成し遂げ、バンクーバーオリンピックの男子シングル日本代表に内定、ニ大会連続2回目の冬季五輪代表入りを果たした。 2010年のバンクーバーオリンピックではSPで90点台をマーク、SP1位のエフゲニー・プルシェンコと0.6点の僅差で3位につけた。フリーでは冒頭の4回転トウループで転倒し、他細かなジャンプミスも有ったが、得意のステップと演技構成点は出場選手中最も高い評価を受ける。結果フリーのみでは5位だったものの、総合得点では4位のステファン・ランビエールを0.51点の僅差で上回り3位入賞を果たし、日本及びアジア人の男子シングルの選手としては史上初の冬季オリンピックのメダルとなる銅メダルを獲得した。
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