ニカラグア手話の創生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 08:19 UTC 版)
詳細は「ニカラグア手話」を参照 1979年のサンディニスタ革命で誕生したニカラグア新政府は、国内が落ち着き始めたころに最初の国家的な施策として識字率向上を掲げ、その一環として聾者である子供に対する教育を始めた。これ以前にはニカラグアには聾者の共同体は存在しなかった。特別教育施設は最初に、50人の聾者児童が出席するプログラムを創立した。1983年には施設に400人の児童がいた。施設は世界中で使われている手話による教育設備をなんら有しなかった。そのため、児童は手話を教えられることはなかった。その代わりに言語プログラムでは話し言葉のスペイン語と読唇術が重視され、教師による手振りの使用は(アルファベットを表す単純なサインを使った)指で文字を綴ることに限定された。しかし児童は文字も、スペイン語の言葉の意味も理解できず、このプログラムは成功しなかった。 施設に最初に来た児童らは家族との生活の中で習得したごく僅かで未熟なジェスチャーしか使えなかった。しかし、初めて児童らが家族以外の集団で一緒にいるようになると、彼らは互いの手振りをもと自分が知っていたものに加えて使うようになった。さらに年数がたち、より多くの、より若い児童が参加すると、言語はより複雑さを増した。生徒とのコミュニケーションをあまりとれていなかった彼らの教師らは、児童が互いにコミュニケーションを取り始めたのを敬意を持って眺めた。 後にニカラグア政府はアメリカ合衆国ノースイースタン大学の手話の専門家ジュディー・ケグルの助けを懇請した。ケグルや他の研究者らはその言語の分析を始めると、年長の児童らのピジン様の言語を、より若い児童らが動詞の一致とその他の文法の規則を成立させて、高いレベルの複雑さへと到達させていることに気付いた。
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