トリャピーツィンの処刑とは? わかりやすく解説

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トリャピーツィンの処刑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)

尼港事件」の記事における「トリャピーツィンの処刑」の解説

ニコラエフスク焦土にしたトリャピーツィン一行が、ケルビ(ニコラエフスクから96キロ)に到着するまでに、人数は相当に少なくなっていた。強制動員されていた農民たちは、逃げ出して帰り日本軍報復怖れ中国人朝鮮人たちも、タイガへと逃れた者が多かった6月3日ニコラエフスク占領した日本軍は、トリャピーツィン一行捕らえるつもりではあったが、アムール川からアムグン川にかけて、日本軍が跡を追えないようバージ(艀)などの障害物沈められていて、すぐに航路を使うことは不可能であり、またタイガ逃げ散ったパルチザン捕まえることも難しかったその間ニコラエフスクからの避難民が、ブラゴヴェシチェンスクハバロフスクウラジオストク日本現れ事件の全容外部知られはじめたソビエト政権系のジャーナリズムは、当初、トリャピーツィンの言い分そのままに、赤軍正義日本軍の裏切りを言い立てていたが、労働者大半である数千人の市民虐殺と街の破壊を、日本軍責任にできるわけもなく、ボルシェヴィキ困惑せざるをえなかった。危機感持ったハバロフスクソビエト代表団は、6月終わりにアムグン地域出向き、反トリャピーツィングループと接触した。 反トリャピーツィングループを指導していたのは、殺されたブードリンと友人だった砲手アンドレーエフである。協力者には、朝鮮人第2中隊率いていたワシリーがいた。ソビエト代表団接触したことによって、アンドレーエフ行動起こした。ケルビのパルチザン本部は、アムグン川停泊する蒸気船中にあったが、7月3日の夜、本部で眠るトリャピーツィンとニーナ・レベデワが逮捕され続いて指導部全員捕らえられた。9日人民裁判が行われ、トリャピーツィンとニーナ・レベデワ以下7名が銃殺となった裁判の中でトリャピーツィンは、「もし自分ニコラエフスク行った全てのことのために裁かれるのならば、その時同志自分裏切って裁判渡し逮捕した人々含めて一緒に裁かれるべきだ」と述べた判決文におけるトリャピーツィンの主な罪状は、5月22日から6月2日までのニコラエフスク殺戮許容したこと、さらに7月4日まで、サハリン州でも虐殺命令発していたこと、ブードリンなど数名仲間共産主義者射殺したこと、であって日本人虐殺については、まったく触れられていない同時に、「ニコラエフスク管区赤軍司令官として在職中ソビエト政治方針従わず職権者を圧迫しロシア共和国政府のもとで活動していた労働者間の共産主義対す信頼を傷つけた」ことを罪状上げ、トリャピーツィンとニーナ・レベデワは、ソビエト政権への反逆者であったと、位置づけている。

※この「トリャピーツィンの処刑」の解説は、「尼港事件」の解説の一部です。
「トリャピーツィンの処刑」を含む「尼港事件」の記事については、「尼港事件」の概要を参照ください。

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