トリャピーツィンの使者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)
この24日、トリャピーツィンの使者オルロフが日本軍守備隊を訪れて、ニコラエフスクの明け渡しを申し入れたが、守備隊長は「このパルチザンは強盗団である」という認識から、白軍の求めに応じて、白軍探偵局へオルロフを引き渡した。白軍は、引き取った使者オルロフを殺してしまった。 実はオルロフは、実際に山賊をしていたという証言もある。虐殺から生きのびた市民E.I.ワシレフスキイ(課税評価人)が、1920年7月の宣誓証言で、こう言っている。「オルロフは、1918年のボルシェビキ委員のベベーニンとスレポフとともに逃亡し、逮捕処刑されるまで、山賊をやっていた」 オルロフの処刑について、スモリャークが述べるソ連側の言い分では、「白軍は使者を残虐に責め殺した」ということである。一方、白軍将校の中で奇跡的に虐殺をまぬがれたグリゴリエフ中佐 は、次のように証言している。「パルチザンが町に入った後、彼らは軍使オルロフの死体を発見した。トリャピーツィンの命令で、ロシア人および日本人医師からなる委員会が組織され、オルロフの死体を検視した。そして、銃痕以外には、なにも傷がないことが確認された。(両耳は鳥につつかれていたが、それは死後に起ったことである)私は、このことを委員会の一員だったポブロフ医師から聞いた」 リューリ兄弟商会の社員だったYa.G.ドビソフにも、同じような証言がある。「トリャピーツィンによって公開された情報は、実際の事実とは一致しなかった。『我らの軍使オルロフは、拷問によって殺され、このことは国際調査団によって確認された』という彼の主張は全くのデタラメであった。反対に、ロシア人と日本人の医師からなる調査団は、オルロフの死体を検査し、数ヶ所の銃弾の痕以外は、他に傷がないことを証明した。私は、ボブロフが、調査団のロシア人医師の一人であったことを覚えている。トリャピーツィンは、この結論に大変不機嫌であった。そして、検査の報告を公表しなかった」 木材工場主のI.R.ベルマントもこう証言する。「トリャピーツィンは町に入市するとすぐ、ロシア人と日本人の医師、住民の代表からなる合同委員会を任命した。委員会は、数発の弾痕以外、オルロフの遺体には、何らの傷あとも、拷問のあとも認められない、と断定した。このことは、委員会のメンバーだった、ユダヤ人住民代表のデルザベットとボブロフ医師に聞いた。トリャピーツィンは以前から、オルロフは拷問によって殺された、と触れ回っていたが。委員会によってその結論が出たにもかかわらず、同じ事を言い続けた」
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