トト・マニア
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父ジュゼッペ・デ=クルティスが1944年9月に死んだ後、1945年からの数年はトトは映画と演劇の両面で活動し、またいくつかの歌を作詞作曲し、そしてルイジ・ピランデルロの小説の朗読を吹き込んだ。6番目の映画となるマリオ・ボナール(イタリア語版)の『ザビーネの鼠(イタリア語版) Il ratto delle Sabine』に出演した。幾つかの批評が出て、ヴィンツェンツォ・タラリーコ(イタリア語版)は「彼が演劇界にいち早く戻ってきたことを喜ぼう」と評した。続いてステーノとアジェノーレ・インクロッチ(イタリア語版)の脚本でマリオ・マットーリ(イタリア語版)監督の『二人の孤児(イタリア語版) I due orfanelli』を、またマットーリとは続けて1947年に『トトのイタリア旅行(イタリア語版) Totò al giro d'Italia』、1949年に『ヴィッジュの消防士たち(イタリア語版) I pompieri di Viggiù』を制作した。一方で演劇ではガブリエッリ演出の『世界は一回きりだった(イタリア語版) C'era una volta il mondo』を公演し、「二人の孤児」でも共演したイザ・バルツィッツァ(イタリア語版) Isa Barzizzaの恋人役を演じた。マリオ・カステラーニとは常に協力し、彼はトトの映画のそれぞれの監督が忙しい時には助監督も務めた。 『世界は一回きりだった』はチューリッヒでも成功し、イタリアだけでなくスイスでもトトの喜劇俳優としての名声は高まった。演劇の終わりのカーテンコールで、トトはベルサリエリ兵の軍隊ラッパのリズムで山高帽をとってお辞儀した。これは『ヴィッジュの消防士たち』のシーンにも見られる。1947年10月、公演の最中にトトの母親が死んだ。トトは私事のために演劇を休まず、巡業を続けた。彼は常に「トト」を演じ、「アントニオ・デ・クルティス」を心の隅に追いやった。 1950年、トトは唯一の吹き替え声優として、アメリカ映画『ターザンと女奴隷(英語版)』のナレーターの吹き替えを務めた。演劇ではバルセロナ、マドリッド他スペインの都市で、『二つの光の間に スペイン語:Entre dos luces イタリア語:Tra due luci』をスペイン語まじりで公演し、またその中の挿入歌を不正確なスペイン語とナポリ方言を交えて歌った。イタリアに戻ったこの時期、雑誌社セッテ(数字の7の意)の求めで写真撮影に応じている。 トトが映画の世界に入った時、たくさんの企画が持ち込まれたが、それらの多くは資金面の問題により中止されたり、撮影すらされなかった。幾つかの映画は撮影と同時に脚本が書かれる始末で、2, 3週間の短い撮影期間で、舞台上で即興を演じたり、演劇で慣れているのと同じ演技をした。彼はやる気を削がれながら、それでも自分の演技のクォリティを保つため、計画が持ち込まれるときはいつも、創造性を深く追求し、その上で即興に応じた。このような彼の努力によって、トトはイタリア映画界で最も有名な喜劇俳優の地位を築いていった。「彼の演技は全く予測できなかった。彼は腕で語っていた」とニーノ・タラントは述懐している。一方ヴィットリオ・デ・シーカは「もちろん、彼が即興するときのその身振りは天才的でかけがえのないものである」と評価している。とは言え、カルロ・クロッコロ、ジャコモ・フリア、ステーノの批評にあるように、トトは楽屋にこもって何度も即興の練習をし、納得の行かないところは何度も手直しをした、とマリオ・カステラーニは語っている。 でも、私を喜ばせなさい!--トト
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