トウショウ牧場の低迷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:10 UTC 版)
「スイープトウショウ」の記事における「トウショウ牧場の低迷」の解説
トウショウ産業株式会社トウショウ牧場は、フジタ工業の副社長や参議院議員を歴任した藤田正明が1965年に開いた、北海道日高地方静内町の競走馬生産牧場である。藤田は1962年から馬主活動を行っていたが、トウショウ産業株式会社の名義でも馬主登録を行い、牧場生産馬を自ら所有して競馬場で走らせるオーナーブリーダーとなった。トウショウ産業や藤田は「トウショウ」の冠名を用いていた。 1965年には、アメリカの繁殖牝馬ソシアルバターフライを牧場に導入する。ソシアルバターフライは、1976年の皐月賞、有馬記念を優勝した「TTG」の一角・トウショウボーイを始め、トウショウピット、ソシアルトウショウなど、活躍馬を多く輩出。加えて孫以降の世代にも活躍馬が続出し、ソシアルバターフライ系と呼ばれる大牝系を構築した。牧場は、名声を高めるきっかけとなったトウショウボーイの種牡馬生活を後押しするために、交配相手の繁殖牝馬を外国から輸入。調達した繁殖牝馬や、ソシアルバターフライ系以外の系統の繁殖牝馬に積極的にトウショウボーイをあてがっていた。それと同時に牧場は、ソシアルバターフライ系の更なる発展を狙って、その牝系の繁殖牝馬を重用するようになる。牧場繁殖牝馬の半数をソシアルバターフライ系にしては、好成績が期待できる大物種牡馬を優先的に割り当てていた。当時の牧場には他に、シラオキ系、チャイナトウショウ系、ビバドンナ系などの牝系が揃っていた。しかしそれらの多くは、トウショウボーイ産駒の後押し、ソシアルバターフライ系の発展のために切り捨てられ、他の牧場に放出されていた。 トウショウボーイとソシアルバターフライ系に重きを置く牧場だったが、そのどちらも奮わなかった。ソシアルバターフライ系は次第に時代遅れの牝系となり、牧場はトウショウボーイの次になかなか出会えずに低迷していった。トウショウボーイ産駒は、クラシック三冠馬ミスターシービーなどを出すも、活躍馬は他の牧場生産馬が中心だった。そんな中、1991年に、トウショウボーイ以来の大レース優勝を、シスタートウショウが成し遂げた。桜花賞を優勝したシスタートウショウは、牧場で唯一残されたシラオキ系繁殖牝馬コーニストウショウにトウショウボーイを配合し、産まれた牝馬だった。同じ年、牧場としてはトウショウボーイ現役時を上回る最高成績を残していた。その要因は、ソシアルバターフライ系以外の仔が活躍したためだった。それでも牧場は、ソシアルバターフライ系の復興を願って止まずに執着し続け、併せてシラオキ系シスタートウショウからの大物誕生にもすがっていた。しかし、ソシアルバターフライ系は衰退の一途を辿り、シスタートウショウの産駒も今一つ。逆に放出したシラオキ系繁殖牝馬からGI優勝馬マチカネフクキタルが誕生してしまっていた。牧場は再び低迷期に突入、1980年代から1990年代前半にかけて、毎年のように重賞勝利を記録していたが、1994年からの4年間は重賞未勝利だった。 そんな状況下で代替わりが発生。藤田の三男衛成が二代目オーナー、志村吉男が三代目牧場長となった。衛成は低迷からの脱却を目指した。牧場の土壌や水質など環境改善に取り組み、併せて繁殖牝馬を整理して血統の更新に努めた。時代遅れとなったソシアルバターフライ系への偏りを解消し、シラオキ系、チャイナトウショウ系、ビバドンナ系の軽視を見直した。さらに外国から繁殖牝馬を輸入し、新しい牝系の構築を目指していた。これまで好成績が期待できる大物種牡馬の相手は、おのずとソシアルバターフライ系だったが、他の牝系にもその機会が与えられるようになった。
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