デラウェア州とニュージャージー州の境界紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/22 03:11 UTC 版)
「12マイル円」の記事における「デラウェア州とニュージャージー州の境界紛争」の解説
12マイル円がデラウェア川に達していることから、デラウェア川の水面の領有は通常とは変わった形態となった。通常、川を境界線とする場合は、水路全体の中央線(フーゴー・グローティウスに因んで「グローティウス法」という)もしくは主な水流の中央線(タールヴェグ)とすることが多い。しかし、デラウェア州では勅許状の規定を適用して、12マイル円内のデラウェア川の水面全体をデラウェア州の領域とし、東側(ニュージャージー州側)の干潮境界線を州境としている。 デラウェア川の他の場所では中央線かタールヴェグを境界としているため、ニュージャージー州はデラウェア州との州境の設定にしばしば反発した。1813年、デラウェア州議会はピーパッチ島を米国政府に譲渡する条例を可決した。この島は川のニュージャージー側であったので、1820年、ニュージャージー州はデラウェア州がこの島を所有していたということに対し異議を唱えた。司法長官ウィリアム・ワートは、デラウェア州の主張を支持した。1840年代、ピーパッチ島をめぐって、2つの矛盾する巡回裁判所判決が出された。デラウェア州巡回裁判所は、ピーパッチ島を含む川全体がデラウェア州に属するという判決を出した。ニュージャージー州巡回裁判所は、ピーパッチ島はニュージャージー州に属し、ニュージャージー州の住民であるヘンリー・ゲール博士に譲渡されている判決した。ジェームズ・ポーク大統領の勧告により、党は仲裁に同意した。その内容は、デラウェア州の主張を支持するものだった。 仲裁によって紛争は最終的な解決をせず、最高裁判所に何度か紛争が持ち込まれた(ニュージャージー州対デラウェア州裁判(英語版))。その中で著名なのは1877年、1934年、1935年、2007年のものである。1934年の裁判での法廷意見には、この領域に対する領有権の広範囲な歴史が含まれている。1935年の法廷意見は、ニュージャージー州とデラウェア州が再び彼らの管轄区について異議を唱えることを禁止するものとして記憶されている。 BPによるデラウェア川のニュージャージー側に沿って液化天然ガスターミナルを造る計画をニュージャージー州が承認しようとし、これがデラウェア州のCoastal Zone Actに干渉するものであったため、両州は2005年11月に最高裁判所で争うこととなった。 2006年1月23日の法廷は専門委員(英語版)に境界紛争について研究するよう命じた。2008年3月21日、デラウェア州の権益を大きく支持する報告書が確認された。一方、デラウェア州下院は州の利益を保護するために州兵を出動するための(象徴的な)議案について検討し、ニュージャージー州の議員は川上に停泊している戦艦ニュージャージーについてコメントした。
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