デザイナーからバーの経営者に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/20 01:58 UTC 版)
「奥山彰彦」の記事における「デザイナーからバーの経営者に」の解説
その後、企画制作会社に勤務し、デザイナーの見習いを経て、コピーライターなどを兼務するようになった。しかし、社内の派閥争いが激化し、その煽りで一方の派閥の交渉責任者に祭り上げられてしまったことから、勤務先に嫌気が差し、呑み仲間らとともに飲食店を開業しようと決意した。ところが、他の呑み仲間は口ばかりで何もしなかったため、結局、物件探しから資金集めまで全て一人でやることになった。その頃、生物学者の最首悟の友人から新宿ゴールデン街のバー「ぎょろ」を紹介され、その店で修業を始めることになった。この店は新宿ゴールデン街に古くからあり、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で三島事件が発生する直前には、作家の三島由紀夫と楯の会のメンバーが制服姿でこの店の向かいを歩いていたという。その後、「ぎょろ」のマスターから店を譲るから専属になってほしいと頼まれ、1976年より同店専属で働くようになる。同店のオーナーとなってから、自身の姓にちなんで店名を「奥亭」に改名した。なお、店の看板には、現在も「奥亭」の横に「ぎょろ」と併記されている。 ただ、かつて常連客として通っていた店との競合や客の奪い合いが発生することを危惧し、バーで働くようになってもほとんど宣伝はしなかった。しかし、自然と客が集まるようになり、俳優や映画監督といった映画・演劇関係者から、総会屋やヤクザといったアウトサイダーに至るまで、幅広い客層が集うようになった。通っていた著名な客としては、俳優の馬渕晴子、作曲家の郷伍郎、作家の天野哲夫、といった人物が挙げられる。また、著名な店員としては、写真家の須田慎太郎らが働いていた。「奥亭」を引き継いだ当初は「2年間だけのつもり」で始めたが、その後も長きにわたって営業を続け、1998年には2号店となる「O2」を新宿ゴールデン街でオープンさせた。しかし、景気低迷期の下での2号店の出店は無謀と考える者も多く、同業者からは「この不景気のなかで一軒の店をやるだけでも大変なのに、何を考えているのか」と指摘されたという。しかし、のちに「無謀な挑戦がその後の若い人たちの出店ブームに刺激を与えた」とも評されている。
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