テレーズィエンシュタット
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「クルト・ゲロン」の記事における「テレーズィエンシュタット」の解説
1943年の秋、ゲロン一家はオランダの北東にあるヴェステルボルク( Westerbork )へ送られた。ここは当初、ドイツから逃れてきたユダヤ人の難民キャンプの場として機能しており、「テレーズィエンシュタット」( Theresienstadt )と呼ばれるゲットー( Ghetto, ユダヤ人の居住区)に送られるまで、ゲロンはキャバレーに出演するなどして人々を楽しませようとしていた。 テレーズィエンシュタットに送られてきた一部のユダヤ人たちは「特権的なドイツ系ユダヤ人」と見なされており、ゲットーでの生活を許されていた。ゲロン自身はかつて第一次世界大戦に従軍してドイツのために戦い、俳優および映画監督としても著名な人物であったことで、テレーズィエンシュタットにおける特権的な地位を与えられた。1944年の2月下旬、ゲロン一家はテレーズィエンシュタットに移送された。だが、ゲロン一家が到着した時点で、ここは飢餓と伝染病が蔓延する劣悪な環境下にあり、多くのユダヤ人が命を落としていった。この年、テレーズィエンシュタットが国際赤十字社に公開されることになり、ナチスはここの施設を美化しようと考えた。「ユダヤ人入植地」に名前を変更し、建物の壁を塗り直し、庭園を造り、銀行、喫茶店、劇場、コンサートホール、競技場までも新たに建設した。赤十字社の査察官たちがやってくると、競技場ではサッカーの試合や子供たちによるオペラの合唱が行われた。赤十字社は、ナチスによるプロパガンダにまんまと騙された。 1940年、ヨーゼフ・ゲッベルスによる指示で『永遠のユダヤ人』( 『Der ewige Jude』 )と題したプロパガンダ映画を製作・公開した。この映画では、「(アーリア民族に悪影響を与えた)劣ったユダヤ人」の一例としてゲロンが登場している。この映画はテレーズィエンシュタットでも上映された。 ゲロンはジャズ・ピアニストのマルティン・ロマン( en:Martin Roman )とともにゲットー・キャバレー「ダス・カルーセル」(「Das Karussell」)に出演するようになった。 1944年8月、ナチス親衛隊はゲロンに対し、『Ein Dokumentarfilm aus dem jüdischen Siedlungsgebiet / Der Führerschenkt den Juden eine Stadt』(『ユダヤ人入植地のドキュメンタリー ~総統がユダヤ人に都市を与える~』)と題したプロパガンダ映画の製作を命じた。ナチスは自分たちに都合の良い内容のプロパガンダ映画を作ろうと考えており、スイスを初めとする中立国での視聴を意図していた。ナチスの役人や警備員による監察下で、ゲロンは、収容されているユダヤ人たちに対して演技指導を行い、演技や笑顔を要求した。撮影は11日間に及んだ。 のちにアウシュヴィッツから生還した一部のユダヤ人は、ゲロンがこの映画撮影に対して積極性を見せることで、ナチスによる迫害から逃れられる可能性があるのではないかと信じていたのかもしれない、と推測している。これとは別に、ゲロンによる公演は「収容所での辛い日々を送る中で、一瞬だけ現実逃避をさせてくれた」と考える人や、毎週ごとにアウシュヴィッツに送られていくユダヤ人にキャバレーを見せる行為を「冒涜」と見なす人、ナチスによるプロパガンダ映画製作にゲロンが積極的に参加したことを「欺瞞」と考える人もいる。
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