チリ経由かペルー経由か
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/20 01:59 UTC 版)
「ボリビアガス紛争」の記事における「チリ経由かペルー経由か」の解説
パイプラインの経路を巡る議論は、2002年の前半に当時の大統領であったホルヘ・キロガ・ラミレスがチリのメヒリョネス港(Mejillones)までのパイプラインを作る提案をした直後に起こった。 この案はタリハから太平洋までの最も近いルートである。しかし、太平洋戦争(1879年 - 1884年)で太平洋に接する領地を全てチリに奪われたボリビアには、チリに対する根深い反感が残っている。このため、チリ経由の案には反論が巻き起こり、ガス採掘地からは260kmも遠くなるが、北側にあるペルーのイロ港(Ilo)にパイプラインを引くべきだと論じられた。チリの試算によるとメヒリョネス港の案のほうが6億ドルは安くなるとされるが、ペルーの試算によると3億ドル以下の差に抑えられるはずだとされた。ボリビア人はペルー経由の案を支持した。これは、パイプラインが通るボリビア北部の利益にもなるからである。 チリ案を支持する人たちは、ボリビアに精製工場が無い以上、チリ案を受け入れるのがボリビアにとって最善であると主張した。また、合衆国の経済専門家は、ボリビア国内に精製工場を作るためにさらに投資をする事など考えられないとした。 一方、ペルー政府はボリビアとの「領土と経済の結びつきの強化」を熱望し、99年間に渡ってガス輸出経済特別区をイロ港に設置し、ボリビアはそこを自由に通行でき、港を含む10km2の区域に特別にボリビアの管轄権を与える事を、ボリビアに対して提案してきた。 キロガ大統領は任期終了直前の2002年7月に、このきわめて困難な問題の結論を出す事を先送りにして次の大統領に任せる事を決めた。これには、2007年の大統領選挙で再選される可能性を無くしたくないという思いが働いたものと思われる。 2002年の大統領選挙で当選を果たしたサンチェス・デ・ロサダはメヒリョネス港の案を優先して考えると表明したが、「公式の」決定は下さなかった。 コカ生産者であり社会主義運動党 (Movimiento al Socialismo : MAS)の党首であるエボ・モラレス (Evo Morales)は、外国企業がボリビアの天然ガスの輸出に携わる事に対し強く反対。(社会主義運動党は2002年の大統領選挙ではかろうじて第2党になっていた。)彼は、南米の最貧国であるボリビアを救うには自国の企業で行なわなければならないと主張した。
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