チャーチル家系譜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)
「ウィンストン・チャーチル」の記事における「チャーチル家系譜」の解説
チャーチル家が栄進するきっかけを作ったのは、17世紀のウィンストン・チャーチルだった。このウィンストンは弁護士の息子で、自身も弁護士になったが、清教徒革命の際に王党派の騎兵将校として戦ったこと、また初代バッキンガム公爵ジョージ・ヴィリアーズの姪を妻としたことで1660年の王政復古後に成功を掴んだ。イングランド庶民院(英語版)の議員に当選し、また宮内庁の会計官となり、ナイト爵を与えられた。 初代マールバラ公爵 その息子ジョン・チャーチルは公爵となった。ジェームズ2世、ウィリアム3世、アン女王の三代に軍人として仕えた彼は、モンマスの反乱を鎮圧し、名誉革命ではジェームズ2世を裏切って革命の成功に貢献し、大同盟戦争やスペイン継承戦争では対仏同盟軍の総司令官として数々の戦功をあげた。アン女王の寵愛を受けた女官サラ・ジェニングスと結婚し、アン女王から引き立てられ、スペイン継承戦争の戦功により初代マールバラ公爵に叙され、またウッドストック (オックスフォードシャー)に広大な所領と、同地にブレンハイムの戦いの戦勝を記念するブレナム宮殿(ブレンハイムの英語読み)を建設するための資金30万ポンドを下賜された。これは戦功に対する恩賞としては前代未聞の大盤振る舞いだった。 初代マールバラ公爵には無事成人した男子がなかった。議会はマールバラ公爵位を存続させるため特例として女系での継承を許可した。これにより初代マールバラ公爵の死後、長女ヘンリエッタが第2代マールバラ女公爵となったが、彼女の息子も早世したため、彼女の死後、マールバラ公爵位は、彼女の妹であるアン(英語版)と第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーの間の子第5代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーに継承された(第5代チャールズの弟の家系は後にスペンサー伯爵に叙され、その子孫がダイアナ妃である)。 スペンサー=チャーチル 以降このチャールズ・スペンサーの直系男子がマールバラ公爵位を継承していくことになるが、チャールズはスペンサーの家名を使い続けたのでチャーチルの家名はこの時に一度消えた。しかしチャールズの孫であり、1817年に当主となった第5代マールバラ公爵ジョージは、ワーテルローの戦いの戦勝ムードの中で武勲ある家名チャーチルを復活させることを許可され、以降「スペンサー=チャーチル」の二重姓を使用するようになった。 このジョージの孫にあたるのがチャーチルの祖父である第7代マールバラ公爵ジョン・スペンサー=チャーチルである。彼の代には歴代当主の浪費と、産業化に伴う地主の没落という世相を反映してマールバラ公爵家の家計は相当苦しく、所領や家財を売り飛ばして生計を保つという有様だった。 第7代マールバラ公爵には5人の息子があったが、うち3人は早世し、2人が無事成長した。長男ジョージと三男ランドルフ卿である。この三男ランドルフ卿がチャーチルの父親である。 なお、父ランドルフは「Lord(卿)」の称号を持っているが、これは公爵の庶子だからである。イギリスでは法律上貴族であるのは爵位を持つ家の当主のみであり、それ以外はその息子であっても当主の地位を継ぐまでは平民である。伯爵以上の貴族の場合は従属爵位をもっており、その貴族の嫡男は、当主になるまで従属爵位を儀礼称号として使用する。また公爵家・侯爵家の場合は、嫡男の弟たちも「Lord(卿)」の儀礼称号を使用する。ただしどちらも儀礼称号に過ぎず、法的身分は平民である。チャーチルは公爵の庶子の子供に過ぎないから称号を持っていなかった。
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