チャーチルダウンズの内外へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 23:12 UTC 版)
「マット・ウィン」の記事における「チャーチルダウンズの内外へ」の解説
ウィンの経営感覚は鋭く、特に広報の面で発揮された。当時のチャーチルダウンズは地元ルイビルの上流階級に注目されていなかったが、ウィンはこれに目を向けさせることに尽力した。競馬場のクラブハウス改修にあたって上流階級に会員を募り、結果200人から100ドルずつの資金を得て、1903年のダービーより前にクラブハウスの新造が完了した。その美観が『ルイビル・ヘラルド』紙などに報じられている。 また、チャーチルダウンズは当時ウエスタンターフ協会という競馬場の統括団体に所属していたが、この団体の主力競馬場はチャーチルダウンズに対して不都合な開催日程を押し付けようとしていた。ウィンはこれに反発し、1904年に同じく対抗意識を持つ競馬場などを巻き込んでアメリカンターフ協会を設立、競馬開催日を双方被らせる熾烈な攻撃を加えた結果、ウィン側が勝利を収めた。1907年頃のアメリカンターフ協会にはニュー・ルイビルジョッキークラブ(チャーチルダウンズ)のほか、同じルイビルのダグラスパーク競馬場、さらに州外のニューヨーク州ヨンカーズのエンパイアシティ競馬場、ルイジアナ州ニューオーリンズのクレセントシティジョッキークラブ、およびシティパーク競馬場が所属していた。 エンパイアシティ競馬場に関しては、のちに同競馬場支配人を務めるジェイムズ・バトラーとともにニューヨークに乗り込み、当時のジョッキークラブおよび有力者であるオーガスト・ベルモント2世の異議を封じ込めて設立にこぎつけている。ウィンとバトラーの手腕は国外にもおよび、1909年にメキシコの国境の町シウダー・フアレスにおいての競馬開催が円滑になるよう、革命家のパンチョ・ビリャに資金援助と協力要請を行っていたことがわかっている。ただ、フアレスにおける競馬運営は結局成功せず、1916年に競馬場は閉鎖されている。
※この「チャーチルダウンズの内外へ」の解説は、「マット・ウィン」の解説の一部です。
「チャーチルダウンズの内外へ」を含む「マット・ウィン」の記事については、「マット・ウィン」の概要を参照ください。
- チャーチルダウンズの内外へのページへのリンク