ダスキン時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:27 UTC 版)
70年代は蛭子にとって不遇の時代であり、漫画家を諦めかけていた蛭子にチャンスをもたらした名物編集者の高杉弾(メディアマン)から1979年に原稿を依頼されるまで彼の世間での知名度は皆無同然であった。 私生活では、長女の史英が生まれた1972年に結婚。その後はちり紙交換の職に就くが、1974年に長男の一郎が生まれたのを機に漫画を趣味と割り切り、有限会社ダスキン練馬のセールスマンに転職。しかし、金銭的には困窮しており、生活苦から生活保護を受給するに至った。 会社員時代の自身については、「どんな時でも目立たずに、自己主張なんてことは一切せず、何もかも上司の言いなりに動く会社員でしたね。まぁオレの性格が意見とかそういうのが言えないから、めんどくさい業務とか残業なんかも頼まれると断りたいけど断れないんですよ。心の貧しい生活を強いられている、それがサラリーマンだと思っていたんですよね」と回想している。 その後、糸井重里と湯村輝彦が共作した不条理漫画『ペンギンごはん』シリーズに刺激を受けるが、漫画では収入を一銭も得る事ができず、デビューから2年程で寡作になり、1976年7月号掲載の「愛の嵐」を最後に沈黙。以降『ガロ』での執筆は1981年6月号掲載「地獄のサラリーマン」まで5年間途絶えることになる。次第に蛭子は職業漫画家に限界を感じるようになり、郷里の長崎に帰る決意を固める。 1979年頃、初代『ガロ』編集長の長井勝一に別れの挨拶を述べるため神田神保町にあった青林堂を訪れる。しかし、蛭子の才能を惜しんだ長井は「単行本を出版して応援するから、あと一年頑張ってみて売れなかったら帰ればいい」と説得し、蛭子は安堵した様子で青林堂を後にしたという。後に長井は「俺も蛭子さんの才能はただものじゃないと思ってたから、あのとき力になれて本当によかったと思っているよ」と回想している。
※この「ダスキン時代」の解説は、「蛭子能収」の解説の一部です。
「ダスキン時代」を含む「蛭子能収」の記事については、「蛭子能収」の概要を参照ください。
- ダスキン時代のページへのリンク