ダイムラーとの合併に向けた準備(1924年 - 1926年)
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「ヴィルヘルム・キッセル」の記事における「ダイムラーとの合併に向けた準備(1924年 - 1926年)」の解説
第一次世界大戦後、キッセルはベンツ社の再建に熱心に取り組んだ。しかし、当時のアメリカ合衆国の自動車製造会社がベルトコンベアを用いたライン生産方式による生産の合理化(大量生産)を確立しており、ドイツにおける輸入米国車は関税がなければドイツ車の半額という状況で、国際競争力の格差は歴然としていた。この状況に危機感を抱いたドイツの自動車製造会社各社は、アダム・オペル社(後のオペル)を先頭にして生産体制の変革を行い、同時に、既存の会社同士の合併による組織の合理化を進めた。1923年末、ベンツ社は同じドイツの自動車会社であるダイムラー(Daimler-Motoren-Gesellschaft, DMG)との間で将来の合併を念頭に置いた覚書を交わし、翌年5月に利益共同体契約を結んだ。 キッセルにとっては、1923年7月にベンツ社の監査役となった投資家ヤコブ・シャピロ(ドイツ語版)の存在も懸念材料だった。シャピロは100台単位の大量の自動車を掛けで購入し、当時のハイパーインフレを利用することで1921年時点でベンツ社の株式40%を取得し、ドイツの他の自動車メーカーも取得していた。いずれシャピロがベンツを崩壊へと導くと考えたキッセルは、ベンツ社への投資家を独自に探し始めた。 そうして、1924年から、キッセルはベンツ社とダイムラー社(DMG)の合併に向けて重要な働きをすることになる。1924年時点で利益共同体契約は結ばれたが、この時点では合併の合意がされたわけでなく、両社の間で合併が初めて正式な議題になったのは1926年6月10日である。キッセルは両社の合同取締役会に1924年11月から出席を始めたが、両社の合併に至るまでには特に諸銀行を中心として主導権争いが発生し、キッセルはベンツ社の監査役であるカール・ヤール(Carl Jahr)、ドイツ銀行の取締役でダイムラー社の監査役であるエミル・ゲオルク・フォン・シュタウス(英語版)とともに、シャピロをはじめ、両社の「利益共同体」関係に反対する立場の役員の排除にあたった。 また、ダイムラーの合同取締役会において取締役の一人となったキッセルは、従来のベンツ社に加えて、ダイムラー社でも購買部門の責任者を兼務することになった。
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