ダイエー休部・プロチームへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/17 10:30 UTC 版)
「オレンジアタッカーズ」の記事における「ダイエー休部・プロチームへ」の解説
しかし、折からの不況でダイエー本体がダメージを受けており、これを理由に第4回Vリーグの最中であった1998年1月にチームの休部が発表された。このリーグでは開幕から好調をキープしていた。そんな中での休部発表は、チームの勢いに水を差すのではないかという心配をよそに、休部報道後も勝ち星を連ね、最終的に2度目のリーグ優勝を果たす。「ダイエーとしての有終の美を」という選手の意思が生んだ結果であり、試合後、チームの旗を手に会場を駆け回る選手の姿はファンの感動を呼んだ。 Vリーグ優勝を果たしたチームは、試合直後の祝賀会での中内功ダイエー会長兼社長(当時)の提言により、新チームでの存続の道を探ることとなった。当初目指していた独立採算型のプロチーム設立は断念したが、グループ会社のダイエーコミュニケーションズがチームを引き受ける事になり、1998年6月1日、日本バレー界初のプロチーム・オレンジアタッカーズが誕生した。 新生オレンジアタッカーズは積極的に広報活動を行い、選手たちもこれに積極的に参加した。一般向けファンクラブ設立やグッズ販売、イベント開催などは、当時としては珍しく、こうした面でもバレーファンから注目を浴びる事となった。オレンジアタッカーズとして初めて迎えたVリーグ(第5回・1998/99年)は大村加奈子や高橋幸子といった若手がレギュラーに起用され、開幕5連勝と出だしは好調だったが、後半に突如大ブレーキ。10勝8敗と勝ち越しながら5位に終わる。直後の黒鷲旗では優勝し、2連覇を果たすが、この大会限りでヨーコ・ゼッターランドが引退。アリー・セリンジャー監督も退任し、更に吉原知子、斎藤真由美、佐々木みきといった中心選手も退部してチームは一気に窮地に追い込まれる。ここで中心になったのは、既にレギュラーとなっていた満永ひとみや大村加奈子をはじめとした若手選手(チーム名になぞらえ、一部では青みかんアタッカーズとも呼ばれていた[要出典])であった。 迎えた第6回Vリーグでは、チャンスを得た選手たちが力を発揮。前年と同じ10勝8敗の成績を挙げたが、またしても5位に終わった。しかし、初レギュラーとなった先野久美子がスパイク賞とベスト6を獲得する活躍を見せた他、同じく初レギュラーの鶴田桂子、関井陽子も活躍した。
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