ターミナルデパート設立への序章
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 16:25 UTC 版)
「阪神百貨店」の記事における「ターミナルデパート設立への序章」の解説
1925年4月に阪神急行電鉄梅田停留場(現在の阪急大阪梅田駅)構内にあった(後の阪急百貨店うめだ本店へと繋がる)白木屋出張所を契約満了を理由に退去した白木屋の代替の店舗として1926年10月1日に当時の阪神電気鉄道梅田停留場構内に白木屋阪神出張店を開業させたのが阪神によるターミナルデパート(=ターミナル駅直結の百貨店)の始まりである。 大正時代の終わり頃から大阪市高速電気軌道第1号線(現在のOsaka Metro御堂筋線)の新設計画に合わせて現在地付近への延伸と駅の移転を含む大阪市の構想への対応を求められていた阪神電気鉄道は、その延伸費用の回収のために1929年に大阪市に百貨店用地の分譲を求め、そのテナントとして南海鉄道難波停車場に進出していた髙島屋と1930年にビルの賃貸の予約の覚書を交わし、直営ではなくテナントの招致によるターミナルデパートの開設を当初は計画し、その計画に基いて1931年12月には建物の設計まで終えた。 その後、1933年3月には阪神電気鉄道梅田停留場構内の店舗を直営の阪神マートを開業して直営によるターミナルデパート経営の第一歩に踏み出し、1937年1月22日に阪神電気鉄道の役員会で「阪神ビルの百貨店は資本金2百万円の株式会社阪神百貨店を新設し阪神傍系の別会社として経営する」と決定し、その日のうちに創立総会を開いて株式会社阪神百貨店を新設し、一般から公募せずに全株式を阪神電気鉄道が引き受ける完全子会社とすることで事実上直営化する方向へ方針転換をした。 そして同年3月に計画地のうち御堂筋沿いの角地を取得したが、1月の百貨店新設の発表に猛反発した阪神急行電鉄が一日平均1.8万人の乗客で混雑する梅田駅の混雑緩和を目的に昭和初期から計画していた南側への新駅開設に必要だとして、ビルの建設予定地の西半分に当たる約2,000坪を地主から密かに買収してしまったため、大阪市や中央政界・中央官庁などを巻き込んでその土地の取得を巡って阪神急行電鉄と激しい紛争を繰り広げることになったが、1938年5月19日に大阪市の決定で無事構想通りの用地取得に成功した。 しかし、この間に戦時体制の一環として鉄材の節約を理由に同年7月に百貨店などの高層建築の中止命令が出され、百貨店法による許可も受けていなかったため構想の実現が不可能になり、1940年5月26日に地上8階の予定が縮小されて地上4階地下2階として建設された梅田阪神ビルディング(後の大阪神ビルの東側部分)の地下1階に阪神マートを移転させて規模を大幅に縮小して開業することを余儀なくされた。
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