タコスへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/07 02:53 UTC 版)
一度は妻に譲歩したものの、ベルは開業を諦めず、市内の別の場所で店を開いた。このころになるとファーストフード店という業態も浸透し、いずれハンバーガーだけでは競争に勝てなくなる、と考えたベルは、ハンバーガーに代わる目玉商品を探していた。ベルは近隣のメキシコ料理店で出していたタコスに着目、タコスで用いるトルティーヤはハンバーガーで言えばパンに相当するものであるから、同様にファーストフードとして扱うことができるはずだと考えた。ベルはトルティーヤ工場に近い土地に新たな店を建て、事前に調理し具を詰めるばかりにした固めのタコス皮を開発し、ソースや調理台にも工夫を加えた。妻はメキシコ料理は辛すぎて売れるわけがない、とベルの計画を批判したが、1951年12月にタコスをメニューに加えると堅調な売れ行きを示し、翌年には店の利益で新居を建てた。しかし妻との仲は悪化し、ベルは店の権利を妻に渡して離婚した。 離婚後、ベルはラスベガスへ向かう道路沿いの街、バーストーに移り、新たな店を構えた。ここでもハンバーガーよりタコスの方が売れたことから、ベルはメキシコ風ファーストフードの専門店を出そうと考えるようになった。バーストーへの移転から間がなく、資金に余裕のなかったベルは、知人との共同出資で1954年サンバーナーディーノに専門店「タコティア」を出店した。開店にあたっては、店名の入った帽子を無料で配布し、マリアッチや踊り子を動員して開店行事を盛り上げた。店は最初の月だけで18000ドルの利益をあげ、ベルは渋る共同経営者を説得し、2店目を出店した。出店したレッドランズはロサンゼルス・ラムズのキャンプ地で、店は選手で賑わった。中には自分も店を出したいと持ちかけてくる選手もおり、ベルはフランチャイズで拡大しつつあったマクドナルドに倣い、選手と組んで新たな店舗を開店した。さらなる追加出店を目指していたが、出店戦略をめぐる意見の食い違いにより、ベルは店の権利を共同経営者に売り渡した。 権利売却後もベルは「タコティア」の店名を使う権利は残していたが、契約によりサンバーナーディーノ周辺での競合店出店はできず、ロサンゼルス近郊のパサデナとロングビーチに用地を確保し、1957年、まずパサデナに出店した。このころベルは再婚し、子供が生まれたばかりであったが、妻は協力的で、転居にも反対しなかった。しかしパサデナの店舗は思ったほどの利益をあげず、ロングビーチの土地を活用することにしたものの、開店資金が不足していた。そこへ、レッドランズ時代に知り合ったラムズの選手で、前年に引退後出資を申し出てきた。フットボール人脈でさらに2人が加わり、うち一人はビング・クロスビーの息子であった。1958年「エルタコ」が開店した。後にウィルミントンにも出店し、経営は順調であったが、ベルは利益も意思決定も全てが共同になってしまう状況を嫌い、店の権利を手放した。
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