ソロデビューから1980年代の活動とは? わかりやすく解説

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ソロデビューから1980年代の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/07 16:25 UTC 版)

シュガー・マイノット」の記事における「ソロデビューから1980年代の活動」の解説

マイノットスタジオ・ワンバッキング・ボーカルギタリストパーカッショニストとして働きながら、自身の曲を録音し始めた伴奏含めて新曲作ることにこだわった他の多く歌手異なりマイノットアルトン・エリスら、一世代前の歌手のために作られリディム合わせて新たなメロディー歌詞歌ったそれまでにもディージェイが古いリディム再使用することはあったが、シンガーがこのアプローチ取ったのはマイノット初めてであり、これをもってマイノットダンスホールレゲエ歌手先駆として知られるようになったマイノットはこの「リディム再利用の手法で「Vanity」(アルトン・エリスI'm Just a Guy」のリディム使用)、「Hang On Natty」(ヘプトーンズGet In The Groove」のリディム使用)、「Mr. DC」(テナーズ「Pressure and Slide」のリディム使用)、「Jah Jah Children」(ローランド・アルフォンソJah Shakey」のリディム使用)などのヒット作出した後、1978年デビューアルバムとなる『Live Loving』を発表したまた、同年には自身のレーベルブラック・ルーツ (Black Roots) を稼動開始1979年には『Live Loving』に収録されなかった既発シングル中心としたセカンドアルバムShowcase』のほか『Bittersweet』と、ルーツレゲエ色の強い『Ghetto-ology』を発表した1980年ラヴァーズロックへの接近試みたアルバムRoots Lovers』やシングルHard Time Pressure」がイギリスヒット記録したため、マイノットはこの時期イギリス拠点移し、翌1981年にかけて「Run Come」、「Not for Sale」、「African Girl」、「Lovers Rock」、「In a Dis Ya Time」、「Africa」、「Make It with You (with Carroll Thompson)」などを続けて発表した中でもマイケル・ジャクソンおしゃれな恋 (Good thing going)」のカバーRCAレコード配給乗った事もあり、1981年3月全英シングルチャートで最高4位を獲得するヒットとなったイギリス成功収めたマイノット1983年ジャマイカに戻ると、同年の内にチャンネル・ワン、ウィンストン・ホルネスと組んだ『With Lots Of Extra』を、翌1984年には大麻テーマにした『Herbman Hustling』を発表し音楽的にジャマイカ的なダンスホールルーツレゲエへと回帰した。 ジャマイカ戻ったマイノットはジャー・スティッチ (en:Jah Stitch)、ランキン・ジョー (en:Ranking Joe)、キャプテン・シンバッド (en:Captain Sinbad)、ランキン・ドレッド (en:Ranking Dread) らのディージェイと、メジャー・スティッチ、ラガ・スティーブ、ドリフターセレクター呼び定期的にキングストン市内マックスフィールド公園ユース・プロモーション (Youth Promotion) というサウンドシステム稼動始めた。 さらに、インディーズ志向持っていたマイノット1978年にはスタジオ・ワン去り自分自身のようにゲットー出身若者助けるために、自身レーベルブラック・ルーツ設立し、バリー・ブラウン (Barry Brown)、テナー・ソウ (en:Tenor Saw)、リトル・ジョン(en:Little John)、トニー・タフ (en:Tony Tuff)、バーリントン・リーヴィ(en:Barrington Levy)、ホレス・アンディと、イギリス出合ったトレヴァー・ハートレイをプロデュースしたマイノットルーツダンスホールラヴァーズ三種類のスタイル使い分け、「Herbman Hustling」、「No Vacancy」、「Jamming In The Street」、「Rub A Dub Sound」、「Buy Off The Bar」、「Rydim」、 「Devil's Pickney」といったヒット曲出し1980年代間人気を保った。特にスライ&ロビープロデュース1984年発表したRub a Dub Sound Style」はラガ先駆的楽曲であった。この時期マイノットスライ&ロビーの他にマイキー・ドレッド、ジョージ・パン、プリンス・ジャミー、フィリップ・ファティス・バレル、ドノヴァン・ジャーメインといったジャマイカプロデューサーや、アメリカのロイド・ブルワッキー・バーンズと仕事をすることが多かった

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