チャンネル・ワンとは? わかりやすく解説

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チャンネル・ワン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/09/18 08:27 UTC 版)

チャンネル・ワン・スタジオ: Channel One Studios)は、ジャマイカキングストン、マックスフィールド・アヴェニュー29番地というレゲエミュージシャンが多く住む地区にあるレコーディングスタジオ

スタジオを開設したのはジョジョ、ケネス、ポーリー、アーネストという中国系ジャマイカ人の兄弟、一族だった。彼らはスロットマシーンジューク・ボックスを置いた遊技場を経営していたが、仕事がらジューク・ボックスにセットするためのレコードを他のプロデューサーたちからよく買っていたのがきっかけで、自然と音楽業界に興味を持ち始めた。そしてジョジョがジョン・ホルトに連れられてダイナミック・スタジオに行った時、そこで耳に入ってきた音があまりにもかっこよく、「こんな音をじぶんたちで創ってみたい!」と口走った。

もともと1960年代中頃から「ダイナミック・サウンド・ディスコ」というサウンド・システムを運営していて、その後このシステムは「ウェル・チャージ・チャンネル・ワン・サウンド」と名前を変え、当時のジャマイカでは人気のあるサウンド・システムだった。

スタジオは1970年4トラックのみのレコーディング・スタジオとして建設され、最初の3年間は経営がうまくいかず、開店休業が続いた。初代エンジニアのシド・バックナーも、それまでスタジオ・ワンやハリー・J、ダイナミックスなどで働いてたエンジニアだったが、フーキム兄弟の満足する音を創ることはなかった。

俺とアーネストは自分たちで直接スタジオの中に入ろうって決めたんだ。スタジオの技術を何も知らない俺たちがね。スタジオ経営やこの業界のイロハを知らないどころか、レコード自体作ったことがなかったんだ。俺たちがやるのは、ただスタジオに入って遊ぶことだけさ。夜スタジオに入って、明け方出てくる。そして自分たちが朝までかかってミックス・ダウンしたものを流して聴いてみる。それを聴いた人たちは『すごい』と言う。...そんな感じで俺とアーネストが作った最初のレコード、デルロイ・ウィルソンの『イッツ・ア・シェイム』はヒットして、それに続いてザ・メディテイションズの『影のような女』、ホレス・アンディの『ガール・アイ・ラヴ・ユー』を録ったんだ。右も左もわからないままやり始めて、気がついたらもう録り終わってたって感じだね。

ジョセフ "ジョジョ" フーキム

1974年には専属バンドが結成された。スライ&ロビーを中心とした「レヴォリューショナリーズ」だった。彼らはリロイ"ホースマウス"ウォレスに端を発する新しいスタイル、「ミリタント・スタイル」をいち早く取り込み、おし進めた。その戦闘的なスタイルも、チャンネル・ワンの飛躍のきっかけとなった。ルーツ・レゲエの代表作であるマイティ・ダイアモンズの「ライト・タイム」を世に送り出すなど、チャンネル・ワン・スタジオからは多くのヒット作が生まれた。

アーネストがいわゆるセッションを録ろうとすると、そりゃあもう一日中ドラムスの音をいじくってることがあるよ。他のジャマイカ音楽のレコードでは、ドラムの音を聴くことなんか全くできない(扱いが小さい)けど、俺たちはレコーディングの時、いつもドラムの音に重点を置くようにしてるんだ。まあ、他にないことを俺たちのトレードマークにするようなつもりで、ドラムの音を全面に押し出したようなもんだね。ちょっとした問題もあったよ。たとえばアーネストがスライ・ダンバーに対して、曲ごとにドラムのトーンを少しずつ変えるように要求したりしてね。そう、アーネストは全ての曲でドラムの音が同じようになるようなことは一度もしなかったんだ。それと、彼はスネアドラムバスドラムの音がちゃんと別々に入るようにした。そのぶん時間もかかったけどね。時にはセッションが延々と続いて、翌日まで終わらなかったなんてこともあるよ。よく言うじゃない、人の素晴らしい点を見つけたら、それを十二分に引き出してやれって。

ジョセフ "ジョジョ" フーキム

1970年代中期から後期にかけて、チャンネル・ワンは当時一番のライバルとも言えるジョー・ギブス・スタジオと同様に、レゲエのヒット曲の大半を手掛けるという、この業界の王道を歩いた。全盛期にはジャマイカで発売されるレコードの80%以上が、チャンネル・ワン録音だったということもあった。

だが1970年代末期になると、チャンネル・ワンは資金繰りで行き詰まり、フーキム兄弟の三男ポールの若すぎる死も重なって、だんだんと経営困難に陥っていった。1980年代に入ると、一流プロデューサーとして名を成していたアーネスト・フーキムも、ジョジョも業界から身を引き、彼らが育ったスロットマシーン業にもどって、心機一転を期することになった。しかしチャンネル・ワンが残した遺産は、いまだに多くの影響を後の世代に与えている。[1]

主なチャンネル・ワン作品

アルバム

V.A.

  • チャンネル・ワン・ヒッツ - Hit Bound! The Revolutionary Sound Of Channel One (1991)

チャンネル・ワン系のレコード会社

  • Well Charged (よく充電された)
  • Hit Bound (ヒット間違いなし)

脚注

  1. ^ CD「チャンネル・ワン・ヒッツ」解説文 テイチク

チャンネルワン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/02 00:56 UTC 版)

アンダーソン・クーパー」の記事における「チャンネルワン」の解説

エール大学卒業後、ABCに新卒不採用となったため、代わりにチャンネルワンの職を得る(チャンネルワンは、米国内中学生高校生などの若者向け番組制作する放送局)。その6ヵ月後、チャンネルワンを辞職1年ベトナム生活の後、ビルマソマリアルワンダなどの紛争地域から映像記事配信するようになった

※この「チャンネルワン」の解説は、「アンダーソン・クーパー」の解説の一部です。
「チャンネルワン」を含む「アンダーソン・クーパー」の記事については、「アンダーソン・クーパー」の概要を参照ください。

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