ゼークトの軍事顧問団長就任とハプロ設立
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「中独合作」の記事における「ゼークトの軍事顧問団長就任とハプロ設立」の解説
1933年5月、ドイツの元陸軍参謀総長ハンス・フォン・ゼークトがヴェッツェル中将の招きで上海に赴き、経済・軍事に関して蔣介石の上級顧問となった。ゼークトは早くも翌6月、経済・軍事推進計画の概説を蔣介石に提出した。その中で、大規模で訓練が行き届かない現状の軍に替えて、小規模で、機動性に富み、装備が整った部隊を整える事を要求し、加えてゼークトは、軍隊は質によってその優劣が決まり、その質の差は将校の質から生じるゆえに、磐石な命令系統が軍隊の骨子を成す、という構想を説いた。ゼークトは、まず第一に、国民革命軍が蔣介石の号令の下に一様に訓練され統治される必要があり、組織をピラミッド型の中央集権構造に変える必要があるとした。これを達成するため、政府が将校団を厳選した、ドイツの「Eliteheer(エリート部隊)」に相当する「模範旅団」を作って、各地の軍団の訓練を担当させれば良いと提案した。 またゼークトは「日本一国だけを敵とし、他の国とは親善政策を取ること」とも蔣介石に進言し、「いまもっとも中国がやるべきは、中国軍兵に対して、日本への敵愾心を養うことだ」とも提案した。これをうけて蔣介石は、秘密警察組織である藍衣社による対日敵視政策をとるようになる。 当時国際的に孤立しつつあったドイツからの支援により、他国からの軍事支援を受けることが難しくなったため、中国は国防産業の自給を進める必要があった。産業構造を効率的にするためには、中国の組織を変えるだけではなく、中国内のドイツの各組織を統一化する必要があった。 1934年1月、中国内のドイツ産業を統括する「Handelsgesellschaft für industrielle Produkte」(工業製品営利会社、ハプロ)がベルリンで設立された。設立者は退役大尉で武器商人であったハンス・クラインである。クラインはすでに1933年6月のゼークトが中国をはじめて訪れたときに同行していた。ハプロ設立の目的は、ドイツが国家として中国への干渉を深めている事に対しての外国からの抗議をかわすためでもあった。 同年4月には、ゼークト大将はヴェッツェル中将に代わって軍事顧問団団長に就任。さらに中国軍事委員会の総顧問に就任した。ゼークトは1935年3月に病気で帰国するまでに以下のような軍事改革を行った。 今後三年間にドイツ製武器を装備した二十個師団の形成 教導総隊の創設 中央士官学校、陸軍大学校、化学戦学校、憲兵訓練学校、防空学校などを南京に設立
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