セックスシンボルとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 16:14 UTC 版)
「ジーン・ハーロウ」の記事における「セックスシンボルとして」の解説
映画会社はハーロウ登場の当初から彼女の妖艶な性的魅力を強調しており、胸元や脚を大きく露出させるシーンがくりかえし撮影された。とくに1932年公開の Red-Headed Woman では、瞬間的に全裸となるショットがあり、妻子ある男を誘惑するといった役柄と相まって当時の観客に大きな衝撃を与えた。この作品は、ハリウッドが映画表現の自主規制を行うプロダクション・コード(ヘイズ・コード)制定に踏み切るきっかけの一つになったとも言われている。 こうしたことからジーン・ハーロウは、1930年代を代表するセックスシンボルと目され、メディアを通じてアメリカ社会に大きな影響力を持つようになった。ハーロウのファッションや髪型は雑誌を通じて拡散し、とりわけ彼女のブロンドの髪をまねようと若い女性たちが競って髪を脱色する「脱色ブロンド (peroxide blonde)」が社会現象となるまでになった。 後年のマリリン・モンローと同様に、その華やかな私生活も生涯を通じてメディアに取り上げられた。ハーロウは最初の結婚が短期間で終わったあと、『紅塵』(1932)成功とともに映画監督ポール・バーンと再婚するが、それとほとんど同時に『紅塵』で共演したクラーク・ゲーブルと不倫関係となる。結果的にバーンは自殺してしまい、これはハリウッドで大きなスキャンダルとなった。翌1933年には照明監督と3度目の結婚をするが、これは1年しか続かなかった。 以後は独身をつづけるが、クラーク・ゲーブルとは不倫関係を解消したのちも遺作『サラトガ』に至るまで人気カップルとして共演を繰り返し、これもメディアの関心を集める原因となった。 一方でセックス・シンボルのイメージとは裏腹に、コメディシーンで複雑な長台詞を完璧に演じてみせる演技力や、アドリブで機智に飛んだ合いの手を挟んでみせる頭の回転の速さは、当時から批評家の間で注目されていた。現在では、ハリウッド映画においてトーキーを製作プロセスに定着させる重要な役割を果たした演技派俳優の1人として、高く評価されるようになっている。
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