スラッシャーズ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 06:08 UTC 版)
「イリヤ・コワルチュク」の記事における「スラッシャーズ時代」の解説
NHLのスカウトがコワルチュクに初めて目をつけたのは2000年にカナダで開催されたU17カナダホッケーチャレンジだった。当時15歳だったが、大会6試合で10ゴール4アシストを決めて大会ポイント王・得点王・MVPとなった。コワルチュクのプレーは北米の専門家をあっと言わせ、大会終了後に彼のスティックはトロントのホッケーの殿堂に運ばれたほどだった, , 。2001年、アトランタ・スラッシャーズはドラフト1位で新人を指名する権利を獲得し、迷った末にコワルチュクを指名。コワルチュクははNHLのドラフトで1位に指名された最初のロシアのアイスホッケー選手となった。 2001年8月15日にはスラッシャーズと総額3年の契約を結んだ。113万ドルの基本年俸に加え、さまざまなボーナスによって最大でさらに461万ドルを稼ぐことが可能であると規定していた。 2001年10月4日のバッファロー・セイバーズ戦でNHLデビューを果たした。 当時18歳と172日でのデビューであり、2008年にザック・ボゴシャンによって破られるまで7年間クラブの最年少記録だった。10月6日のボストン・ブルーインズ戦でNHL初ゴールを記録した。最初のシーズンにコワルチュクはアトランタの中心選手となる。2001/01年のシーズン期間中は順調にポイントを獲得し、チームメートのダニー・ヒートリーと並んで最優秀新人賞のカルダー記念賞の有力候補だった。しかし、2002年の3月に肩を負傷したため16試合を欠場。結果としてカルダー記念賞はヒートリーが受賞した。 2002-2003年シーズンもヒートリーとコンビで得点を重ね続け、NHLで典型的な肉弾戦ではくロシアで身につけた連携でプレーをすることができた。定期試合81ゲームで38ゴール29アシストを記録したが、攻撃に傾倒するあまり守備ではあまり満足のいくプレーができず、チーム内でも低いプラスマイナス24を記録した。 2003年にはコワルチュクとヒートリーはNHLで最も有望な選手の一人となり、アトランタは将来スタンレー・カップを狙えるチームになるだろうと予想する専門家もいた。 ところが、2003-2004年シーズン開幕直前の9月にヒートリーが自動車事故で重傷を負い、アトランタは攻撃の中心選手を欠いてしまう。重傷を負ったヒートリーは2003-2004年シーズンの大部分を欠場し、ようやく復帰した時にはもう以前のようなプレーはできなくなっていた。。ヒートリーが不在の中、コワルチュクはチームの攻撃の中心を担い、定期試合で41ゴールを記録した。そのうちハットトリックは2回あり、スラッシャーズの攻撃陣の中で最多だった。 コワルチュクは定期試合の得点王に与えられるモーリス・リシャール賞を受賞したが、受賞の時点で歴代受賞者の中では最低のプラスマイナス10だった。このシーズンに自身初めてNHLオールスターゲームに初めて選出された。シーズンが終了するとオールスターの第2代表に選出される。 また、ソヴィエト・スポーツ紙によってNHLの最優秀ロシア人選手に選ばれ、ハルラーモフ・トロフィーも受賞した。 2004-2005のシーズン開幕前にロックアウトが起きたため、ロシアスーパーリーグのアク・バルス・カザンと契約した。 2009年からはチームのキャプテンになった。
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