スターリン体制における強化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 10:09 UTC 版)
「ソビエト連邦共産党書記長」の記事における「スターリン体制における強化」の解説
スターリン政権以前は、党政治局においてウラジーミル・レーニンが最高指導者の地位を占めていたことには疑いの余地がなかった。1919年以降、「責任書記」(ответственный секретарь)が党中央の事務を処理したが、政治的役割は果たさなかった。地方の党委員会の責任書記は、それぞれの委員会の指導者を務めた。 1922年に新設された書記長は、純粋に行政上の規律的な役割であった。スターリンが初代書記長に選出されると、党紀・党に対するあらゆる従属と党の一般方針・派閥争いに対する罰則・党の指導者の仕事を任務とする民主集中制の原則が適用された。より高等な組織が下部組織に全面的に義務を負わせ、党幹部である書記長による統制はより強くなり、党の指導者間における地位は高まっていった。中央政治局の他の局員たちは党幹部からますます分裂し、スターリンが異なる党派を互いに対抗させるのを黙認して漁夫の利を得たことで結局彼ら自身は排除された。1930年までに党のみならずソ連の事実上の指導者にまでなったのはスターリンのみであった。スターリンの権力による支配がより確かなものになったことで、彼は党の公式の役割を軽視し始めるようになる。スターリンの周囲で彼に対する個人崇拝の発生が認められた。 1927年の第15回党大会後の12月19日に開かれた最初の党中央委員会総会にて、スターリンは役職の廃止を提案したが、それは反対された。1934年、1939年、1952年の党大会の後、それにより選出された中央委員会はスターリンが書記長であることを確認するためのものではなくなっていた。むしろ、スターリンは役職に関係なく、政治局員、書記局員、そして組織局員に選出され、「中央委員会書記」として書類に署名することをますます好んだ。しかし1952年10月に書記長職が正式に廃止されるまではスターリンが同職に留まり続けたとみなされている。
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