スターリン体制におけるソビエト外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/10 14:14 UTC 版)
「砕氷船 (スヴォーロフ)」の記事における「スターリン体制におけるソビエト外交」の解説
スターリン体制の下、1920年代後期から少なくとも1939年までソビエト外交政策は基本的に守勢であり、まったく注意深いものであった。ソ連は西側の大国との同盟を模索したが、特に伝統的なフランスとの反ドイツ同盟の再結成を求めた。幾つもの理由でこれらへの尽力は失敗している。主な理由のひとつは1941年6月22日以前はソ連がのけ者国家と見られていたことであり、他のヨーロッパの大国はスターリン体制とはいかなる重要な交渉に入ることも望まなかった。また、大粛清の一つの影響は西側の軍事関係者が赤軍は無意味な同盟と見なすようになったことである。それゆえ彼らはドイツに対する伝統的な東西同盟の復活には熱心ではなかったのである。 ナチスの台頭以前はソ連内に共同の軍事教練施設が存在し、そこではドイツとソビエトの兵士達が第二次世界大戦で有名になる戦術と兵器の初期の形を開発している。しかしながら、これらの共同企画はドイツがヴァイマル共和政の下にあって弱かった時期に実施され、一旦ナチスが権力を握ると終了された。 ソビエトの見解ではヒトラーを「囲む」努力は失敗、西側列強は西側に矛先が向かない限りは中央ヨーロッパへのナチス拡大を放置する気配であり、時間を稼ぐためにドイツにいくらかの便宜を出さなくてはならないというものであった。スターリンはソ連はドイツと戦える状態でないことを知っていたが1939年に開始された大規模な再軍備と再編成計画が1942年までに結実し始める可能性があった。
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