スターリングラード攻防戦の影響
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「スターリングラード攻防戦」の記事における「スターリングラード攻防戦の影響」の解説
コーカサス地方の制圧を目指した第1装甲軍などはソ連軍の抵抗と補給難からテレク河で前進が止まっていたが、ソ連軍のドン川西岸進出により、退路を断たれて壊滅する危険が生じた。しかし、マンシュタイン元帥の指揮に加え、スターリングラード包囲網にソ連赤軍が釘付けとなったため、ソ連赤軍のサトゥルン作戦開始は遅れた。ロストフをソ連軍が奪回したのは、第6軍降伏からわずか12日後の2月14日だった。この間に、クライスト上級大将の第1装甲軍などは、クバン橋頭堡を除いて、ミウス河まで撤退することができ、東部戦線南翼の崩壊という事態をなんとか逃れることができた。 ドイツ軍は第6軍のすべてと第4装甲軍の主力が包囲殲滅されるという敗北に終わった。戦傷を含めるとスターリングラード攻防戦を通じての人的損害は、ドイツ陸軍総兵力の4分の1に当たる150万人におよび、3500両の戦車・突撃砲、3000機の航空機が失われた。コーカサス地方からの撤収に成功したクライスト上級大将の第1装甲軍も膨大な重火器と車両を遺棄しており、ドイツにとっては数ヶ月分の生産量に相当する損失となった。 1941年開戦時における戦線全域における攻勢の失敗、1942年における地域限定の攻勢の失敗、これらはドイツ陸軍にとって戦闘能力についての限界を示す重大な事柄であった。 また、工業生産能力の限界からこれ以降、ドイツ軍は東部戦線において広い正面で攻勢をかけられる兵力を持つことができなくなり、決定的勝利を得るための攻勢を起こす機会は二度と得られなかった。ドイツ陸軍の次の夏季攻勢は、バルコンと呼ばれるような極めて狭い地域を巡る戦いになっている。もはやドイツ軍が開戦前に持っていた優位性は失われていた。 枢軸同盟国は、ルーマニア第4軍とイタリア第8軍がほぼ全滅、ルーマニア第3軍とハンガリー第2軍が部隊の大半を失うなど甚大な損失を出した。特にイタリアは北アフリカ戦線で劣勢になっており、ドイツからの離反を図ったガレアッツォ・チャーノ外相が更迭されるなどムッソリーニ政権に大きな動揺がみられた。くわえて親枢軸国であったトルコとスペインがドイツ側に立って参戦する可能性が完全に失われたため、軍事的のみならず政治的、外交的にもドイツの受けた打撃は甚大だった。 なおフランス、パリのメトロにはこの攻防戦での赤軍の勝利を記念して命名されたスターリングラード駅がある。
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