スカウティング創始者として
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「深尾韶」の記事における「スカウティング創始者として」の解説
療養中の1909年春、英字新聞で、ボーイスカウトの創始者ロバート・ベーデン・パウエル卿の著書『スカウティング・フォア・ボーイズ』(Scouting for Boys)の存在を知り、同書を入手。叔父である『少年時報』主幹鎖是勝と共にボーイスカウト運動の研究を開始する。1909年、研究の成果を『少年時報』紙上に発表し、「少年軍団」の設立を呼びかける。翌1910年には静岡歩兵連隊長であった白川義則大佐の協力を得て結成に取り掛かったが、白川の転任のため頓挫した。1910年に上京、土方九元を代表とする報恩会運動の組織である斯道会の書記の職を得、その禄を食みながらボーイスカウト運動創設のためのロビー活動を始める。1912年に学習院では同じくボーイスカウト運動の重要性を認識していた乃木希典と初面談して以降、深尾は再三乃木を訪ねた。そのほか田中義一など軍部、田所美治など教育関係者に少年軍団設立への協力を得んとはたらきかけた。1913年、東京市芝区では少年軍団設立にむけた小学校校長会議が開かれるなどしたが、深尾の前歴に疑問を持つ関係者があり結成には至らなかった。 1914年から1916年にかけては静岡新報の記者となる。その際、静岡県に学務課長として赴任していた二荒芳徳(のちに少年団日本連盟理事長)と知遇を得た。二荒は深尾を静岡の名望家で代議士の尾崎元次郎と引き合わせた。1913年6月、尾崎を団長、深尾と高杉啓次郎を理事として静岡少年軍団を創設した。浅間神社で催された入団式には111名の隊員が集まった。高杉は元社会主義者である深尾を排除することを求めたが、尾崎が深尾を擁護している。 1915年、「スカウティング・フォア・ボーイズ」の翻訳を元に独自の研究成果を盛り込んだ著書「少年軍団教範」を中央報徳会から出版。同年11月には月刊誌『義勇団』を創設し、少年軍団の宣伝を行った。 1916年、興津(旧静岡県清水市)に転居。静岡少年軍団は解散を余儀なくされた。1918年には万朝報記者として再び静岡に戻り、尾崎、岡本礼一らとともに静岡少年団を結成している。 1922年4月13日、静岡市で少年団日本連盟第一回大会が催され、少年団日本連盟が結成された。1923年、日本連盟常任理事就任。1925年には台湾総督府に招聘され竹内二郎とともに台湾でのスカウティングの基礎を立てた。 1933年に清水電力を起業するも翌年これを解散し、紙糸製袋物製造業をはじめる。
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