スカウティング創始者としてとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > スカウティング創始者としての意味・解説 

スカウティング創始者として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 04:21 UTC 版)

深尾韶」の記事における「スカウティング創始者として」の解説

療養中1909年春、英字新聞で、ボーイスカウト創始者ロバート・ベーデン・パウエル卿の著書スカウティング・フォア・ボーイズ』(Scouting for Boys)の存在知り同書入手叔父である『少年時報』主幹鎖是勝と共にボーイスカウト運動研究開始する1909年研究の成果を『少年時報』紙上発表し、「少年軍団」の設立呼びかける。翌1910年には静岡歩兵連隊であった白川義則大佐協力得て結成取り掛かったが、白川転任のため頓挫した1910年上京土方九元を代表とする報恩運動の組織である斯道会の書記の職を得、その禄を食みながらボーイスカウト運動創設のためのロビー活動始める。1912年学習院では同じくボーイスカウト運動重要性認識していた乃木希典と初面談し以降深尾再三乃木訪ねたそのほか田中義一など軍部田所美治など教育関係者少年軍団設立への協力を得んとはたらきかけた。1913年東京市芝区では少年軍団設立にむけた小学校校長会議開かれるどしたが深尾前歴疑問を持つ関係者があり結成には至らなかった。 1914年から1916年にかけては静岡新報記者となる。その際静岡県学務課長として赴任していた二荒芳徳(のちに少年団日本連盟理事長)と知遇得た。二荒は深尾静岡名望家代議士尾崎元次郎引き合わせた1913年6月尾崎団長深尾高杉次郎理事として静岡少年軍団創設した浅間神社催され入団式には111名の隊員集まった高杉は元社会主義者である深尾排除することを求めたが、尾崎深尾擁護している。 1915年、「スカウティング・フォア・ボーイズ」の翻訳元に独自の研究成果盛り込んだ著書少年軍団教範」を中央報徳会から出版同年11月には月刊誌義勇団』を創設し少年軍団宣伝行った1916年興津(旧静岡県清水市)に転居静岡少年軍団解散余儀なくされた。1918年には万朝報記者として再び静岡戻り尾崎岡本礼一らとともに静岡少年団結成している。 1922年4月13日静岡市少年団日本連盟第一回大会催され少年団日本連盟結成された。1923年日本連盟常任理事就任1925年には台湾総督府招聘され竹内二郎とともに台湾でのスカウティング基礎立てた1933年清水電力起業する翌年これを解散し紙糸袋物製造業をはじめる。

※この「スカウティング創始者として」の解説は、「深尾韶」の解説の一部です。
「スカウティング創始者として」を含む「深尾韶」の記事については、「深尾韶」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「スカウティング創始者として」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「スカウティング創始者として」の関連用語

1
6% |||||

スカウティング創始者としてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



スカウティング創始者としてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの深尾韶 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS